●近畿地方では弥生人は早い時期からアワやキビの栽培を行っていた
これまでお伝えしてきたように、水田稲作は九州北部で始まりましたが、すぐにはそれ以外のところに拡大していきませんでした。250年ほどたって、ようやく中国地方や九州南部などへと水田稲作が広がるようになりました。
ここでは、滋賀、鳥取、徳島の例を取り上げて説明します。
近畿地方の東端、滋賀県の琵琶湖のほとりにある竜ヶ崎A遺跡で発見された土器の内面に炭化物が見つかりました。詳しく調査すると、調理用土器の底にキビが生煮えで残ったものであることが分かりました。これは、竜ヶ崎A遺跡に住んでいた人々が実際にキビを食べていた考古学的証拠と考えることができます。
九州北部では、アワやキビを食べていた証拠はもう少し後の時代にならなければ見つかりませんが、近畿地方では比較的早い時代からアワやキビの栽培が行われ、実際に食に供されていたことが分かります。
●中国地方では紀元前8世紀頃から水田稲作が始められていた
次に、山陰地方の鳥取平野で発見された稲作関連遺跡である、本高弓ノ木遺跡を紹介します。
ここでは、小河川に対して水が漏れないように大きなケヤキの木を倒して、プール状のものを作りました。木が歪むのを防ぐために、木製農具の未完成品を水に浸けて保存していたと推測されます。このように貯木場として用いられていたと考えられる遺跡が見つかりました。
水田の証拠は見つかっていませんが、貯木場は見つかりました。このケヤキの木に対して酸素同位体年輪年代測定法を用いると、紀元前8世紀の中頃に伐採されたことが分かりました。もともと伐採されたものが貯木場の構築物として用いられたのか、別の目的で使われていたものが構築物の道具として用いられたのかはよく分かりません。しかし、少なくとも紀元前8世紀以降に鳥取平野でも水田稲作が行われていた証拠だと考えられます。
山陽地方の岡山地域でもほぼ同じ時期に水田稲作が始まったことが分かっています。つまり、中国地方では日本海側と瀬戸内海側の両方で、ほぼ同じ時期に水田稲作が始められていたということです。
●弥生前期、西日本ではコメと組み合わせてアワやキビも作られていた
次は四国に移ります。徳島平野にある庄・蔵本遺跡で見つかった畑の跡についてお話しします。
洪水によって砂の下に埋もれ、そのまま覆われる形で保存されていることが多いので、日本の遺跡からは水田の跡はよく見つかります。対して、畑は水田よりも高い場所に造るので、そうした形で保存されていることが少なく、畑の跡は日本ではほとんど見つかっていません。
ところが、この庄・蔵本遺跡では、水田と畑が同時に見つかりました。ここで見つかった畑に関して、右側に写真と図面があります。東西17メートル、南北11メートルの長方形の畑と多くの畝の跡が見つかりました。その畑に水を循環させる給水路と排水路も見つかっています。
また、その畑の横に掘られた穴の中から多くのアワが見つかりました。これらのことから、庄・蔵本遺跡では実際にアワが栽培されていたことが実証されました。水田ではコメを作り、畑ではアワを作っていました。この遺跡から出てきたコメとアワの量を比較すると、後者の方が多いことが分かりました。
西日本でコメよりもアワの方が多く作られていたところが存在したというのは興味深い点ですが、少なくとも見つかっている中でアワを作っていたと思われる畑は、現在のところ庄・蔵本遺跡が最古のものとなります。このように、西日本では弥生前期には畑と水田が両方作られていて、コメと組み合わせてアワやキビも作られていたことが分かるのです。
●東日本では西日本より約500年遅れて水田稲作へと移行した
次に、弥生前期の東日本はどのような状況だったか、天竜川沿いの中部地方を題材にして説明します。
上の写真は、長野県飯田市の天竜川沿いの遺跡のある段丘上を遠景撮影したものです。ここでは、紀元前8世紀から約500年間、アワやキビだけを作り続けていた地域です。日本で最も遅く水田稲作が始まった地域でもあります。このように、500年もアワやキビだけを作り続けたことを示す地域は、他にはありません。
加えて、この遺跡では縄文人がまつりの際に用いていた土偶や石棒なども見つかっています。基本的に西日本では、水田稲作が始まると縄文人が用いていたまつりの道具はほとんど用いられていた形跡がなく、弥生時代のまつりに完全に移行しています。対して、中部地方では、水田稲作が始まるまでの約500年間はアワやキビの栽培をしていた地域...