●縄文土器は大陸由来ではなく日本固有の発明である可能性がある
縄文土器に関しては、面白い発見がありました。現時点で、日本で一番古い土器は、青森県の大平山元1遺跡から出土しました。この土器とともにどのような石器が出土しているか調べると、専門用語で「神子柴・長者久保文化」と呼ばれるものと一致します。
神子柴型の打製石斧、大型の斧は、刃の部分だけ磨いている特別な斧です。また、非常に細長くて、木の葉っぱのような柳葉形の尖頭器、つまり槍です。そうしたものを伴う石器文化です。
この石器文化は、もともと日本固有のものではありません。北方領域、例えば沿海州のあたり、ユーラシア大陸北部に存在する文化だと分かっています。それが、北海道から入ってきて、本州まで伝播してきます。そうすると、縄文土器は北方文化の影響の下で出現したと考えることができます。
ところが興味深いことに、九州でも同時期に土器が出現していることが最近の研究で分かりました。九州最古の土器が出土した長崎県福井洞窟で、土器が出土した地層に含まれていた炭化物を年代測定すると、およそ1万6000年前のものであることが確認されました。したがって、日本列島の北部と南西部で、ほぼ同じ年代に土器が出現しているということなのです。
縄文時代の開始をおよそ1万6000年前とすると、およそ1万1500年前の時期をわれわれは「縄文時代草創期」と呼んで区分しています。その縄文時代草創期段階の、特に古い時期の土器は、北海道からほとんど出土しません。帯広に大正3遺跡がありますが、そこから出土した土器でも、およそ1万2000年前のものです。したがって、北回りに土器が伝播してきた可能性は、非常に低いのです。
今度は、西回りで土器が入ってきたという仮説について考えてみましょう。現時点で、世界最古の土器は、中国湖南省の玉蟾岩(ユチャンヤン)洞穴から出土しました。年代測定の結果、およそ1万8000年前のものとされています。
朝鮮半島の最古の土器は、済州(チェジュ)島の高山里(コサンリ)という遺跡から出土したもので、およそ1万年前のものといわれています。そうすると、中国南部から朝鮮半島を経由して日本に入ってくるルートも考えづらいのです。
したがって、現段階では、土器は世界各地でそれぞれの形で出現している可能性が高く、また日本における縄文土器は日本において独自に発明され、登場した可能性が非常に高くなります。このような意味で、土器、特に縄文土器は、日本オリジナルの史料として今後考えていく必要があるのです。
●弥生時代の開始を灌漑水田稲作の開始とすることで定義できるのか?
土器の歴史的意義については、先ほど説明しました。土器が日本列島で登場し、そして広がっていく時代が縄文時代です。
一方、弥生時代は、日本で食料生産を基礎とする生活が開始された時代とされています。すでにお亡くなりになっていますが有名な考古学研究者である佐原真(さはら まこと)先生が、1975年に定義しました。この定義が、基本的なラインとして、今でも用いられています。具体的な考古学的な証拠としては、先ほど指摘した灌漑水田稲作の開始が挙げられます。
次に、古墳時代と弥生時代の境目ですが、これもまた難しいのです。例えば、代表的な古墳である前方後円墳が造られるまでの期間を弥生時代の幅としている研究者が多いのです。ただ、縄文時代と弥生時代を区分する指標として、稲作、それから米の存在が重要視されてきたのです。
日本で最も確実で古い水田の跡は、北部九州に偏っています。福岡県福岡市の板付遺跡や橋本一丁田遺跡、さらに雀居(ささい)遺跡などが挙げられます。佐賀県唐津市の菜畑遺跡もありますが、これも北部九州です。ここから、水田稲作が北部九州に一番初めに伝来してきたことが分かります。最も古い水田は、およそ3000年前に形成されていたので、北部九州ではその時期に水田稲作が始まっていたのです。
一方、先ほども説明したように、本州で最北端の水田趾は青森県弘前市の砂沢遺跡にあります。この水田は、およそ2400年前のものです。北部九州と比べて、600年間ほどタイムラグがあるわけです。
さらに、砂沢遺跡には水田がありますが、その水田の周辺の集落とおぼしき場所からは、土偶や土版といった、縄文時代において呪術具として用...