●縄文時代、自由恋愛は基本的になかった
前回「家族」という言い方をましたが、縄文時代の家族の形に関しては、実はよく分かっていません。例えば、先ほどネットワークを作る上で婚姻が利用されたと説明しましたが、その婚姻にしても、自由恋愛はおそらくほとんどなかったと考えられます。
つまり、ネットワーク形成のために婚姻が用いられるのであれば、子が生まれた時点でどこに嫁がせる、どこにいくのかあらかじめ決まっている可能性が高いのです。そう考えると、自由恋愛は基本的になかったと考えるのが自然です。
こうした指摘をすると、学生たちからは驚きの声が上がります。しかし、考えてみれば、日本でも戦前、あるいは戦後少したった段階でも、恋愛感情抜きの結婚は、実は非常に多く見られた婚姻形態です。また、世界の狩猟採集民や農耕民の間でも、恋愛感情に基づいた結婚は、実は事例としてはそれほど多くないといわれています。
したがって、人間が社会的な集団、例えば家族を作っていく際には、自分たちが考える以外にもさまざまな方法がある、つまりそこには多様性があるという点を、押さえておいてほしいのです。
●核家族だけでなく、拡大家族も一つの世帯として形成されていた!?
縄文時代にどのような婚姻形態が取られていたかは、実はよく分かっていません。研究者によっては、一夫多妻であった可能性もあるとされています。場合によっては、一妻多夫であったと考えている研究者もいます。
ただ世界的に見ても、一妻多夫という婚姻形態は珍しいのです。よって、縄文時代の場合も、住居の規模などから見ると、一夫一妻、もしくは一夫多妻、つまり女性のパートナーが2人から3人程度という形態はあり得たかもしれません。
先ほど説明したように、竪穴住居の中に住んでいた人の数が5人から6人とすると、これに見合った規模の家族、現在われわれが知っている人間集団として家族がおそらく住んでいたと考えられます。しかも単婚家族です。さらに、父親と母親とその子どもたちから形成される核家族が、最も適切だろうと私は考えています。
民族学者の大林太良(おおばやしたりょう)先生は、世界各地の狩猟採集民の例から、一つの家に住む人々は核家族が多いと指摘しています。この主張を援用すると、縄文時代にも核家族が一つの住居には住んでいただろうと考えられます。場合によっては、核家族だけではなく、祖父や祖母を加えたいわゆる拡大家族が一つの世帯を形成していたのではないかと思っています。
●人骨の特殊な形状から遺伝的関係や家族のあり方を探る
この仮説の実証は難しいのですが、墓に目を向けると、傍証にはなりそうな事例がいくつかあります。例えば、人間の頭蓋(とうがい)を例にすると、一般的ではない、特殊な特徴を持つ場合がいろいろとあります。これを「頭蓋形態小変異」といいます。特に、長さなどの尺度で測ることができないものを「頭蓋形態非計測的小変異」といいます。
その例として、頭の縫合線が挙げられます。頭を上から見ますと、この部分に冠のような形の冠状縫合線があります。また、頭頂部から後頭部に向けて「矢状(しじょう)縫合」と呼ばれるギザギザの線があります。そして後頭部に、矢状縫合線から二つに分かれるような形でラムダ縫合線があります。これを「3種縫合線」といいます。
ところが、人によっては額にもう1本縫合線を持っている人がいます。これを「前頭縫合」と呼びます。生まれたばかりの赤ちゃんは、まだ頭蓋が完成していません。また、産道を出てくる際に、頭蓋が少しねじれるので、黄紋、横線のところに空間がありますが、そこはまだ脳が剥き出しになっているので、ピクピクと動いていることがあります。
子供のときには、この部分(鼻筋のあたり)にも縫合線が残ります。しかし、成人するにしたがって、ほとんどの場合、消えてしまいます。ところがこれが成人するまで残っている人が、稀にいます。現代人の中では、約4.5パーセントの人々がこの縫合線を持っています。
岩手県の蝦島貝塚では50体あまりの人骨が出土していますが、前頭縫合線やラムダ縫合線に、本来ないはずの小さい骨が1個あることがあります。このような頭蓋形態非計測的小変異を確認できる人骨が、1メートルから2メートルの範囲にまとまって埋葬されていることが分かったのです。
おそらくこれらの人骨は、遺伝的な側面、より踏み込んでいえば血縁関係を持った人々がある程度、集中的に埋葬されたものだといわれています。
もう一つの例として、愛知県田原市の保美貝塚を取り上げてみましょう。ここからは、...