●縄文時代の集落の都市計画
縄文人は、どのような場所に住んでいたのでしょうか。これについては、多くの研究があります。縄文人が住んでいた村を、われわれは「集落」と呼びます。皆さんがイメージする典型的な縄文時代の集落には、竪穴住居があり、真ん中に広場があり、脇には墓などがあるかと思います。
関東地方では、そういった竪穴住居が円形に並んでいる環状集落が形成されました。場合によっては一つの遺跡に、建物、特に住居趾が100軒から200軒も発見される、非常に大型の村も見つかっています。
ただ、その全ての建物が同時に建っていたわけではないと考えられています。大きな村であっても、おそらくせいぜい10軒程度がワンセットであり、場合によってはもっと少ない。そうした村が1000年近く継続していって、大きな村となっていくのではないかという研究もあります。
ただ、規模が大きい村と小さい村の間には、おそらく何らかの機能差があったろうと考えられます。例えば、非常に大きな環状集落は、その周辺の主要な村、つまり母村としての役割を担っていたのかもしれません。実際に、母村の周りには規模の小さな村がいくつかあることが多いのです。これらの小さな村は母村から分かれた村、つまり分村ではないかと考えられています。もしくは、専門家が集住していて、異なる専門的な機能を担っていた可能性もあります。そのような機能的な分化も起こっていたかもしれません。
東日本では、このように大型の環状集落というものが展開しています。通常は住居があり、その内側に貯蔵穴があり、真ん中には広場が配置されていることが多いのです。ところが、千葉県側の場合は、真ん中がきれいに何もない広場になることが多いのですが、神奈川県などの西関東や山梨県などの中部地方では、環状集落の真ん中にお墓が作られていることがあります。このように、先ほど説明した都市計画の違いが、地域ごとに存在するのです。これも縄文文化の多様性を考える上で、興味深い点です。
私はよく、長野県塩尻市の俎原(まないたばら)遺跡を例として、環状集落を説明します。この環状集落の中も竪穴住居が広がる居住域があり、真ん中にはいろいろな作業や、あるいは会議をしたと考えられる、中央広場があり、その一角に貯蔵穴があります。このような形の都市計画は、東日本には比較的多いのです。
このような都市計画を持った環状集落では、時間がたってくるにつれて、古い竪穴住居の屋根は崩れていき、徐々に土に埋まって窪地になります。すると、今度はその窪地に、さまざまなゴミを捨てるようになります。そういった窪地には、貝層や貝塚へと発達する事例もあります。
次に、千葉県の加曽利貝塚を取り上げましょう。北貝塚と南貝塚を合わせて280メートルもある、メガネ型の大きな貝塚です。この貝塚を掘り上げていくと、底から住居趾が出てきます。その住居趾が円形に配置されていて、その上に貝を捨てていくので、基本的に貝塚自体も円形になり、環状貝塚が形成されていったという事例があります。
●定住性と精神文化の発達には密接な関係がある
東日本では、このような規模の大きい環状集落は多々見られます。一方、西日本では、このような環状集落はほとんど見られません。例えば、島根県、鳥取県、岡山県、広島県、山口県といった中国地方では、住居の数が2軒から3軒しかない、非常に小規模な村がほとんどです。また、家の中に炉がある場合もありますが、多くの家には炉がなく、外で焚き火をした跡があるだけです。このような非常に小規模で、コンパクトな集落が中心となります。
対して、東日本では比較的大きな環状集落が発達しました。その理由は、おそらく定住性が高かったからだと考えられます。中国地方では、しっかりした竪穴住居も少なく、皿のような浅い掘り込みがあって、柱の穴も10センチメートル程度と非常に細いのです。そういった簡素な作りで雨風や山陰地方の山間部では豪雪をどのようにしのいできたのかというのは、非常に難しい問題です。しかし、おそらく簡素な家を作っていることから、中国地方を中心とする西日本では、定住性はそれほど高くなかったと考えられます。
先ほど定住性が発達していく中で、社会が複雑化し、精神文化が急速に発達すると説明しました。その結果として、土偶や石棒といった呪術具も多く出現するようになるという話をしました。
中国地方では土偶や石棒は、ほとんど出土しません。つまり、東日本のように祈る必要がなかったのではと考えられるのです。もう少し踏み込んで考...