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多数合葬・複葬墓は縄文時代のモニュメントだった!?

概説・縄文時代~その最新常識(12)多数合葬・複葬墓の意義

山田康弘
東京都立大学人文社会学部人文学科歴史学・考古学教室 教授
情報・テキスト
縄文時代も年代が下るにつれて、自然の中での循環と再生という死生観とともに、先祖から連なる直線的な関係を重視する系譜的な死生観の重要性が大きくなってくる。これは、気候の寒冷化によって血縁集団が解体したのち、温暖化に伴って地縁的な集団が支配的になったことと関係があるという。多数合葬・複葬例は、地縁的な集団の「先祖」を意図的につくり出し、結束を高めようとする営みの一環だった。(全13話中第12話)
時間:16:19
収録日:2019/06/04
追加日:2019/11/26
カテゴリー:
キーワード:
≪全文≫

●多数合葬・複葬例が縄文時代後期の初めに急増


 縄文時代の死生観は、循環と再生という死生観だけではありませんでした。縄文時代の後半になると、先祖代々つながる系譜的な死生観が出現します。一方では循環によって死と生を見て、また一方では自分の親、祖父母、曾祖父母という生命の流れが直線的に表現されていたということが、近年の研究で分かってきました。

 そうした研究の契機となったのが、縄文時代後期の初め、今からおよそ4300年前の関東地方の遺跡からの発見です。ここでは、茨城県の中妻貝塚を取り上げます。この貝塚には、2メートル程度の円形の墓壙(ぼこう)があります。その中に、頭だけで96体、大腿骨や上腕骨などの手足の骨を含めると103体もの人骨が一括して埋葬されているのです。

 このような墓のことを、多数合葬・複葬墓、あるいは多数合葬・複葬例といいます。多数の人が入っており、それが合葬されています。さらに別のところで最初に埋葬しているので、遺体を複数回埋葬する、つまり複葬されています。こうした、多数合葬・複葬例が、縄文時代後期の初め頃に急激に増加してきます。これは、いったいどういう意味を持つのでしょうか。


●多数合葬・複葬例は縄文時代のモニュメントだった可能性がある


 中妻貝塚の場合は、頭なら頭の骨、腕なら腕の骨、足なら足の骨と、個別に埋葬されており、少しまとまりがあるようにも見えます。一方で、中には背骨が全部つながっているものや、あるいは膝や肘の関節が残っているものも、中に入っています。つまり、個別に埋葬された骨とそうではない骨では、死亡した時期が違うと考えられます。

 靱帯が残るなどの関係で、人間の身体が完全にバラバラになるにはおよそ2年から3年が必要だといわれています。バラバラに埋葬されているということは、それより前に亡くなっていたということです。ところが、背骨や膝関節がくっついている骨は、まだ亡くなってからおよそ1年から2年しかたっていないと考えられます。このように、死亡時期が大きく異なる人々が、一括して埋葬されていることが分かってきました。

 また、2メートルもの土坑墓を掘り上げてみると、墓の底に柱を立てたような跡が出てきます。したがって、100体近くの人が埋められているのですが、最初から土で蓋をされたわけではないようです。墓の底の柱を立てた跡は屋根なのか、あるいはアメリカの北西先住民のトーテムポールのようなものなのかは分かりませんが、顕著な上部構造があったことを示唆しています。

 加えて、この中妻貝塚で見つかった人骨の年代を測定すると、その幅が約100年しかありません。100年間で100人亡くなっているということは、とてつもない大集落です。しかし、縄文時代にそのような大集落があったとは、まず考えられません。したがって、100体近くの人たちは、いくつかの村で墓地に埋葬された人たちを、一度掘り出してわざわざ中妻貝塚に持ってきて、再度埋めたのだと考えられます。そのような祭祀を行っていた人たちだと考えられるのです。

 中妻貝塚は環状貝塚です。特に1カ所だけ切れ目があるので「馬蹄形貝塚」と呼ばれます。中妻貝塚の場合、馬蹄形に開く部分は、おそらく集落の入口であったと考えられます。先ほどの多数合葬・複葬例は、この集落の入口のすぐ脇に作られていました。つまり、人が通るたびに必ず目にする場所です。しかも、上屋構造があるので、余計に目立ちます。

 したがって、この墓は、何回も繰り返し見ることで、その記憶を新たにすることを目論んだものです。そして、それが作られた理由にまで思いを馳せることを求めるものです。現代では、「モニュメント」という言葉で表現されることがあります。この場合、中妻貝塚の多数合葬・複葬例は、縄文時代のモニュメントであった可能性があります。


●気候の変化とともに集落の在り方が血縁ベースから地縁ベースに


 このモニュメントと考えられる多数合葬・複葬例は、実はいくつもの遺跡で見つかっています。それらの遺跡は、全て縄文時代後期が始まる頃に作られているのです。縄文時代早期から中期にかけて、温暖化が進んでいきます。中期で少し緩やかに寒冷化していくのですが、基本的にはずっと安定していました。

 ところが、温暖化して安定化していた気候が、いきなり寒くなる時期が、縄文時代中期の終わりから後期の初めの時期なのです。縄文時代の人たちは、この寒冷化にどのように対応したのでしょうか。

 先ほど説明したように、中期の集落は場合によっては100人程度の人々が住んでいる、ある程度規模の大きい環状集落です。しかし、寒冷化して、さまざまなバイオマスの量が低下すると、100人の...
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