●計画的な集落景観の出現やインフラの整備など定住生活も発展していく
前回お話ししたように村を作ると、例えば、ここにはクリを植える、そこには漆を植える、あそこでは何をする、などさまざまな場所決めを行います。また、居住地域に関しても、ここに家を建てるので崖の斜面はゴミ捨て場にしよう、といった場所決めを行います。そうして、崖の斜面が貝などの捨て場所に決まると、そこに貝塚が形成されていきます。さらに、人が亡くなった場合には、墓地を立てます。
このように、計画的に集落の中を区分していったのです。少し大げさな言い方ですが、都市計画を彼らは考えているのです。われわれはこれを、「計画的な集落景観の出現」と呼びます。これは縄文時代の大きな特徴の一つです。
また、定住生活をすると、多くの道具立てが必要となり、さらにそれを用いた作業を村の中ですることになります。例えば、石器を作ったり、土器を作ったり、いろいろなものを編んだり、動物を解体したり、などです。そのために、さまざまな作業場を作ります。こうしたインフラの整備がなされていきます。
さらに、村の内部に水さらしが必要だとすると、村から小川の方に下りていく場所に木を使って木道を作ります。まさにインフラです。そして、水さらしをするために大きな水槽を作ります。堅果類の加工場、それから食料の貯蔵場所、そこに至るまでの道などを整備していきます。
それから、沢の方に下りていきたいが、ぬかるみが強くて入れない場合、そこに大量の土砂を入れ込みます。あるいは、その土砂の中にわざと土器をまぜて、足で踏んだときに沈み込まないようにしています。このような痕跡も、山形県の押出(おんだし)遺跡などで見つかっています。
このように、縄文人は自然をそのままに利用するだけではなく、使いやすいように改良していきます。こうした中で、集落の中にさまざまな形で都市計画が張り巡らされていきました。
●村と村をつなぐネットワークは婚姻と祭祀によって強化されていった
一方で、1カ所に定住すると、例えば石器を作るために黒曜石、装身具を作るためにヒスイが必要という場合、自分たちで採りに行くには距離も遠く、時間がかかります。そうすると、村と村をつなぐネットワークを利用して、必要な物資を調達するようになります。
縄文時代の最初の段階では、必要な物資があれば、おそらく自ら採りに行っていたでしょう。しかし、年代が下って縄文時代の中期以降には、大型の村がつくられるようになります。そうした状況では、黒曜石やヒスイ、琥珀といったさまざまな物資を自ら出向いて入手するのではなく、ネットワークを通じて入手するようになります。
こうしたネットワークはどのように組まれていたかというと、おそらく婚姻を媒介にしていたのでしょう。姻戚関係をさまざまな村と結び、村と村はつながっていったのです。
これは、現代のインターネット・ネットワークのように、クリックすると必要なものがパッと届くものではありません。しかし、ある物資が必要な場合には、彼らのネットワークを通じてその情報が伝わり、時間をかけて必要な物資が調達される。このような彼らなりの物流システムを、縄文時代の人々も形成していた。これは間違いないと考えられています。
さて、そのような彼らのネットワークの上でも、さらにこれをより強化する方法がありました。婚姻でネットワークを強化すると説明しましたが、さらにこれをより強化するために祭祀が用いられました。婚姻によって親戚関係が作られていく中で、親戚一同を集めて大がかりな祭祀を行います。現代でも、夏にはお盆という行事があります。地域によっては、本家に親戚一同が集まり、お経をあげた後、飲食をともにするなどして、何日か過ごすような場面があるかと思います。
さらに、飲んだり食べたりする中で、「この人は自分の親戚だったのか」、「今まで疎遠だったけど、話してみるとすごく面白いから、その後、関係性が親密になった」などということがあるかと思います。縄文時代の人たちも同じです。祭祀ではおそらく先祖などを祀ると思われますが、その中で共飲共食を通じて、生きている人間たちがより強い絆を持つようになっていく。そうした場として、それが用いられるようになります。
●決め事や呪術など社会的な精神的な文化も次第に発達していく
祭祀については、遊動社会、つまり移動する社会であれば、それをする必要はまったくないのです。
ところが定住社会は違います。例えば、隣の村と軋轢が起こったり、あるいは住んでいる人の中でも衝突が起こったりします。そこで、集団の中でそれらの問題を解決するために、さまざまな決め事が必要になります...