●「弥生時代=吉野ヶ里遺跡」というイメージを覆す比恵・那珂遺跡群
それでは、第5章として、弥生時代後期、すなわち紀元前後の、奴国の中心地であった博多湾岸諸国の遺跡の話をいたします。
この地図は、博多湾に沿って分布する遺跡の一覧表です。図の中央にあるのは、金印が発見された志賀島です。南側の海岸線に沿って多くの弥生時代の遺跡がありますが、その中心となったのが比恵・那珂遺跡群です。弥生時代後期というと大きな環壕を持った、吉野ヶ里遺跡などをイメージされる方が多いと思います。
しかし、比恵・那珂遺跡群はそれとは非常に異なります。大きな違いとしては、方形の区画と道路が整備されていたと考えられる点が挙げられます。吉野ヶ里遺跡のように弥生時代の農村といった趣ではなく、むしろ街に近い遺跡です。
ただ、福岡市は戦前から開発が進んでいるので、吉野ヶ里遺跡のように一つの丘陵を一気に発掘調査して、集落全体をイメージする遺跡は、都市化が進んでいる博多にはありません。そのようなこともあって、弥生後期の遺跡としては吉野ヶ里遺跡が代表として扱われがちです。しかし、実はより進んだ地域では、遺跡の景観はより都市的な機能を持つ形態をしていたのではないかと考えられています。
この丘陵を南側から見た図面が右側の図面です。左側はイラストになります。この比恵・那珂丘陵に初めて人が住み始めたのは、先ほどお話しした最古の環壕集落が出てくる紀元前9世紀です。右側の図面でいうと、左側の下の方に「弥生早期」と書いてある場所がありますが、最初にここに人が住み始めます。縄文時代には、この丘陵上、人は全く住んでいませんでした。
紀元前9世紀にここに環壕集落が形成されましたが、100年ほどで廃絶してしまいます。紀元前8世紀に比恵・那珂丘陵の中心地は北に移動し、そこから時代が下るにつれて、徐々に丘陵全体が開発されるようになります。博多湾から川を上って、運河に入り、北の丘陵の入り口まで到達し、さまざまな経済活動を行っていたことが確認されています。
●比恵・那珂遺跡群から出土した考古学的試料
弥生時代の中期、紀元前3世紀になると、吉野ヶ里遺跡で多く見つかっている甕棺を棺として墳丘墓が見つかっています。それがこちらの図面です。
この甕棺のなかに細形銅剣とともに葬られている人も確認されています。
また、この遺跡では、竪穴住居とは異なり、当時の有力者が住んだと思われる居館の跡もいくつか見つかっています。1辺が30メートルから70メートル程度の方形の区画のなかに、生活の場を持っていた首長クラスの人々の存在も明らかになっています。
この比恵・那珂遺跡は奴国のなかでも最も海に近い場所に存在しますが、金属器製作地帯としても有名で、特に青銅器を作っていたことで有名です。ここでは鋳型や、溶けた青銅器を鋳型に流し込む道具である「とりべ」などの、さまざまな青銅器製作のための道具が見つかっています。
こちらの写真は、ガラスを鋳造する際に用いたと思われる「掛堰(かけぜき)」と呼ばれるものです。これは穴が空いていてジョウロのようになっています。溶けた青銅を一度これに流し込み、細い口から鋳型に注ぎ込むものです。こうしたものも発見されています。
また、青銅だけではなく鉄の道具も多く出土しています。この比恵・那珂遺跡の鉄器の出土量は、他の遺跡を圧倒するほど多いのです。特に重要なのは、土木具として用いる鉄製の鍬先や鋤先です。これは木製の鍬や鋤の先端にはめて掘削する道具です。こうした形態の道具は大正時代まで用いられていました。
また、日本における製鉄は古墳時代にならなければ始まりませんので、鉄器を作るための鉄素材は朝鮮半島から運ばれてきていました。それらを加工して、鋤先や鍬先を作りますが、そうした鉄素材も多く出土しています。板状の鉄製品や鉄斧などが、弥生時代後期には鉄素材として流通していたと考えられるのです。
●弥生時代を代表する博多湾の遺跡には道路や街区が存在した?
この丘陵上には、道路状の遺構が見つかっています。道路遺構として有名なものには、古代の東山道などの7世紀以降の大きな道路がありますが、これは弥生時代後期の道路と考えられているもので、丘陵上を縦横に走っている...