平安時代の構造と特徴は?激動と転換の400年が持つ意味 平安時代の歴史~「貴族道」と現代(1)日本の歴史における平安時代の意味 追加日:2024/01/05 古代から中世への移行期である平安時代は、日本史上最長の400年に及ぶ時代である。平安貴族に象徴される優雅なイメージとは異なり、この10世紀は内外の危機に見舞われた激動の時代でもあり、さらに周辺国も含めて大きな転換期だったの... 律令国家から王朝国家へ…「請負制」と公家、武家、寺社家 平安時代の歴史~「貴族道」と現代(2)請負システムの浸透と王朝国家の確立 追加日:2024/01/12 10世紀以降、平安時代の日本において、天皇は権威ある存在として権力から離れていくと、政治権力を代行する存在が登場してくる。それが摂関家、武士、宗教権門の3つである。これは中国の律令国家モデルからの脱却と日本独自の「王朝国... 宇多、村上、醍醐…大転換期を象徴する天皇名の変化 平安時代の歴史~「貴族道」と現代(3)10世紀の外的環境と天皇名の変化 追加日:2024/01/19 かつて日本が遭遇した最大の対外的な危機は平安時代、「王朝の時代」といわれる10世紀に訪れる。四方を海に囲まれた日本は諸外国と比べ、歴史的に外部からの危機は非常に少なかったが、その頃の大陸の政治変動に影響され、外部の脅威... 三平時代から三道時代へ、「摂関政治」定着への大きな流れ 平安時代の歴史~「貴族道」と現代(4)摂関政治と「三平・三道」時代 追加日:2024/01/26 平安時代に摂関政治が成立すると、天皇の役割は象徴的なものへと変化していった。この時代、藤原北家によって摂政・関白制度が確立されると、政治権力の中心は藤原摂関家に移る。そして『大鏡』に描かれた、藤原時平をはじめとする「... 院政か親政か…日本史で重要な政治システム「治天」とは 平安時代の歴史~「貴族道」と現代(5)摂関政治から院政へ 追加日:2024/02/02 平安時代後期の摂関政治において、特に摂関家の女子力が政治的影響力を持つようになる。天皇の血統を保持する上で摂関家の女子たちが重要な地位を占めたからだ。そうして、当時非常に大きな役割を担った摂関政治だが、やがて「院政」... 藤原道長によって最盛期を迎えた摂関政治…なぜ衰退した? 平安時代の歴史~「貴族道」と現代(6)摂関家の成立と摂関政治の衰退 追加日:2024/02/09 藤原道隆、道兼、道長の「三道時代」になってくると、それぞれがライバル関係の中で競争の原理が働き、最終的にチャンピオンシップを握ったのは藤原道長だった。この段階で最盛期を迎える摂関政治だが、その後衰退していくことになる... 『古事談』『古今著聞集』にみる平安朝の結果オーライ主義 平安時代の歴史~「貴族道」と現代(7)律令国家と王朝国家の違い 追加日:2024/02/16 摂関政治から院政へと移行していく中で、王朝国家はその特徴をさらに強めていった。公家、武家、寺社家の3つの権門は、それぞれの分野で権力を発揮して律令国家と異なる請負体制を確立させた。当時の様子をうかがい知ることのできる『... 「貴族道」とは何か――武士の対極にある貴族の価値理念 平安時代の歴史~「貴族道」と現代(8)平安王朝における「貴族道」 追加日:2024/02/23 平安時代の貴族は位階三位以上を指していたが、彼らが国政の中枢を担当する一方で、位階四位以下の人々は地方政治を担った。そしてこの時代、貴族たちは独自の価値観として、「武士道」に対をなす「貴族道」といっていい概念を形成し... 左道に訴えないーー『古事談』が伝える「貴族道」の本質 平安時代の歴史~「貴族道」と現代(9)「貴族道」の「貴族道」たる所以 追加日:2024/03/01 平安時代、暴力や武力は「左道」にあたり、やってはいけないことを意味する。「貴族道」は劣勢であっても決して左道、すなわち暴力や武力に訴えず、議論でそのことを伝えていく。つまり客観性と平和主義とを重んじる価値観を示してい...
「王朝国家」と「武士」が誕生した理由は大唐帝国の解体 「武士の誕生」の真実(1)10世紀の東アジア情勢と「王朝国家」 追加日:2021/12/15 日本における中世の主役といえば、武士である。鎌倉時代、室町時代、江戸時代は、武士が政権を掌握した、まさに「武士の時代」だった。では武士はいったいどこから誕生したのか。これまでの教科書的理解では、農民の中で力をつけたも... 武士の前身「兵(つわもの)」と「武士」の大きな違いとは 「武士の誕生」の真実(2)兵と武士の違い 追加日:2021/12/22 武士の誕生を考える際に重要になるのが、その前身として位置づけられる「兵(つわもの)」の存在である。では、兵と武士の違いはどこにあるのか。それぞれの文化的な位置づけや、領主的側面における違いなど、両者の異なるあり方を見... 「平将門の乱」でなぜ負けたか…私営田領主と在地領主 「武士の誕生」の真実(3)2つの領主制と「平将門の乱」 追加日:2021/12/29 兵(つわもの)と武士を分ける最大の違いは地域との関わり方にある。「私営田領主」と呼ばれる兵は、領地を広く浅く支配する一方で、「在地領主」と呼ばれる武士は、その地域に土着し、狭く深い関係を築く。この2つの領主制の違いに「... 律令国家から王朝国家へ、採用された「請負」システムとは 「武士の誕生」の真実(4)2つの軍事的緊張と軍事の請負 追加日:2022/01/05 「兵(つわもの)」の登場を考える際にポイントとなるのが、当時の日本の対外問題である。アジアに位置する日本は、北と南の辺境地域における軍事的課題を抱えていた。そうした対外的な緊張に対応するため、始まったのが軍事の「請負... 「芋粥」に登場する藤原利仁からわかる地方下向の理由 「武士の誕生」の真実(5)俘囚の役割と武士団のルーツ 追加日:2022/01/12 律令体制の解体に伴い、北と南の軍事課題に直面していた当時の政権は、その鎮圧をどうするかに苦心していた。そこで考え出された方策が「夷を以て夷を制す」。つまり、北で反乱を起こす蝦夷勢力を、南で問題となっていた新羅海賊への... 承平天慶の乱がなぜ軍事貴族を輩出する契機となったのか 「武士の誕生」の真実(6)承平天慶の乱と軍事貴族 追加日:2022/01/19 これまでの歴史の理解では、中央政府の不安定化に伴って、武士が登場してきたというストーリーが一般的だった。しかし、近年ではそうした理解が見直されつつある。むしろ中央政府と兵にはある種の協力関係があったのである。兵はいか... 奥州十二年合戦、契機は辺境軍事貴族の「ルール無視」 「武士の誕生」の真実(7)奥州藤原氏と奥州十二年合戦 追加日:2022/01/26 「将門追討3人衆」の一人、藤原秀郷はその後、平泉を中心に11世紀ごろから勢力を拡大していく。その末裔にあたるのが藤原清衡の父親で、息子の清衡は「奥州藤原氏」の始祖となる。ちょうど同じ頃、俘囚の末裔で辺境勢力である安倍氏と... 「内乱の10年」制し成立した武家政権と封建制の歴史的意味 「武士の誕生」の真実(8)武家政権の成立と封建制の意味 追加日:2022/02/02 「内乱の10年」といわれる対平氏と藤原氏との10年にわたる戦いを制し、源頼朝による武家政権が成立する。その過程で「奥州合戦」に勝利し、その結果として与えられた「征夷大将軍」という名称が武家の正統なる官職として認知されてい...
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