●10世紀以降、天皇は権力を持たず、権威という存在へ
それでは、前回述べたように、特に平安時代の、10世紀以降の内部の構造、権力の構造の変化というものを、どのように理解すればいいかということです。理解のしやすさからいえば、前回にいったような、お手本のある時代とお手本がなかった時代という言い方で整理すると、10世紀以前の律令の国家です。おそらく、これを見られている方の中には歴史好きな方や、高校時代に受験でやったという方など、律令国家というものをよく勉強したいう方もおられるでしょう。
律令というのは、まさしく中国の隋唐帝国をお手本にしたもので、律なり令なりを原則とした国家運営のシステムであり、これを総体として律令国家と呼ぶわけです。
その律令国家の中にあって、天皇が権威と権力を一身一体の中で、集中的に中央集権の権力を実行していくのです。ある意味で、中国の皇帝主義というものを日本にそのまま平行移動していったということになるわけです。
ところが、徐々に天皇の権威と権力が一体化してきたものが、10世紀以降になってくると権威と権力の分離、分裂というものがなされていきます。つまり10世紀以降の天皇というのは、権力は持たずに、むしろ権威という存在で不動の立ち位置を獲得していくのです。その意味では、政治権力は別立ての形で、その政治権力を代行する存在が登場していきます。
●「王朝国家」で政治権力を代行する公家と武家と寺社家
平安期における政(まつりごと)の代行というシステムが、実際にどのような形でなされたかというと、天皇に代わって政の代行をなすわけですから、天皇は権威体として鎮座し、そして天皇の代わりの権力の部分だけを政の立場で代行していくのです。このような家柄が、「摂関家」という立場の家柄なのです。
ただ、国家というのは公事とか、あるいは祭事とか、総体としての政治、行政の政だけで終わるわけではなく、例えば様々な騒乱とか、あるいは内乱とか、紛争などを、武力的な形で解決を余儀なくされることもありました。
その意味では、戦う人、つまり武力を請け負うという形で国家に組み込まれる立場の勢力もありました。これが後になってから、戦う人々の集団という意味で、「武士」「武家」と呼ばれるようになります。
しかし、武士、武家という存在だけで国政が運営されるかというと決し...