●なぜ国家は存在するのか?
皆さん、こんにちは。そもそも「国益」とは何か。この問いに対して、国家の理性(国家理性)という側面から考えていきましょう。
「国益(national interests)」とは、文字通り「国家の利益」です。したがって、「国益(国家の利益)とは何か」との問いは、「国家とは何か」と「利益とは何か」という二つの問いに分解することができます。
まず、国家について考えてみましょう。私たちが生きている世界は「国際社会(international community)」と呼ばれます。「international」は「inter」と「national」、つまり国家(nation)を主たるプレイヤーとする、国家と国家の間の関係をいいます。これが「国際関係」という関係であり、そうした国家が並立している社会を、国際社会といいます。
グローバル化の時代、多国籍企業やNGO、テロリストなどの「非国家主体」と呼ばれるプレイヤーの役割が高まっていますが、中心的役割を果たしているのが国家であることに変わりはありません。また、予見し得る将来にわたって、国家を超える主体、例えば世界政府が誕生する可能性もほとんどないでしょう。
●国家が必要な三つの理由
国家の歴史は2千年以上続いてきましたが、今後もその歴史は続き、主権国家が並存する国際社会という基本構造が大きく変わることは考えにくいでしょう。
なぜ、国家はこれほど長くかつ至上の存在として続いてきているのでしょうか。それは、国家を必要とする理由があるからです。最大の理由は、私たち一人ひとりの生存と安全の確保のためです。国家はそのために主権を行使し、国民の前で「国家の存在理由(raison d'e-Tat)」を明らかにしてきたのです。
近代主権国家の場合、それは対内主権の行使としての警察による治安の確保や裁判所による権利の保護であり、対外主権の行使としての外交や軍事による平和と安全の確保です。
それは、16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパにおいて誕生した主権国家の歴史を紐解けばよく理解できますし、このことは、これまでに説明してきたとおりです。
●「国家理性」は、国防と治安を究極の目的とする
さて、16世紀から17世紀のヨーロッパでは、国家を超える普遍性を持つ宗教(キリスト教)的秩序が瓦解し、近代主権国家からなる国際社会が誕生したことは、お話しした通りです。宗教改革でローマ教皇や教会の権威が揺らぎ、宗教戦争が絶えない時代に、キリスト教の正義や権威に代わる「国家理性」の概念が広がったことがその背景にありました。
「国家理性」とは何でしょうか?
人間は孤立的で利己的である。人間が国家のない自然状態において保持している生命・自由・財産などの権利(「自然権」)を守るには闘争は避けられない。そんな悲観的な見方で国家理性を説いたのが、すでに論じた通り、17世紀のイギリスの哲学者・政治思想家のトマス・ホッブズです。
彼には、「人間は人間にとってオオカミなのである」という名言があります。
そんな人間対人間の闘争状態としての自然状態からどう脱却するのか。彼は、人間の「自然権」を制約して監視する必要があると考え、そこから、いわゆる「社会契約」によって「自然権」を譲渡することで絶対的権力(主権)が生まれると主張したのです。これが「国家理性」を支える論理です。
したがって、「国民の生存と安全」の保障こそが主権を賦与された「国家の存在理由(レゾンデタ)」であり、主権国家の行動原理となったわけです。主権国家は、「国家理性」の下で、外部の敵から国民を守り(国防)、国内の無法者から市民を守る(治安)ために、権力を独占し、国力を最大化するわけです。
「国家理性」の追求は必然的にパワーの追求を意味しました。それは、国内では市民を脅かし、対外的には他国を脅かすこともありました。前者は個人の抵抗権による市民革命を生み出し、後者は国益の衝突による戦争につながりました。このように、「国家理性」は、「理性」と呼ぶには余りに危険な独善を内に秘め、それは時には国家を滅ぼしさえしたのです。
●「国家理性」と「権力政治」の危険な関係
ドイツの歴史家マイネッケは、「各国家は自己の利益という利己主義によって駆り立てられ、他の一切の動機を容赦なく沈黙させる」と書き残しています。マイネッケが洞察した通り、国際社会は、まさに主権国家が自らの「国家理性」、すなわち国益を実現するためにパワーをしのぎ合う「権力政治(power politics)」の場となったのでした。
国家理性とパワーの飽くなき追求によって、宗教戦争に代わる国益戦争が繰り広げられ、19世紀末には帝国主義が世界を覆いました。その行き着いた先が二つの世界大戦でした。
第二次...