●近代ヨーロッパが準備した国際法と勢力均衡
第5回は「ウィーン体制と勢力均衡」について、お話しいたしましょう。
ここで近代ヨーロッパの話に戻りますと、国家にとって最高の価値を有する「国家理性」のもとで、宗教戦争に代わる国益戦争が際限のないものとなりました。その中で、平和と秩序の維持のための努力もなされました。
その一つとして、共通の宗教的権威や正義(「神の法」)に代わる国家間のルールとしての自然法があります。「近代自然法の父」と呼ばれるグロティウスは、『戦争と平和の法』(1625年)を著し、神から自立した人間に内在する理性(正義)を根源とする自然法の規範によって戦争を規制しようとしました。その後、遅々とした歩みではありましたが、国際法や国際機関による平和への努力が続けられてきました。
もう一つは、「勢力均衡」によって戦争を抑止し、国際秩序を維持するシステムです。それは、ナポレオン戦争後のウィーン会議において構築された「ウィーン体制」として成立しました。この歴史的舞台の中心にいたのは、この国際会議を主宰したオーストリアの外務大臣メッテルニッヒです。
●「国家の生存保障」を追求したメッテルニッヒの勢力均衡
オーストリア皇帝フランツ1世(在位1804-1835)に仕え、会議を取り仕切ったメッテルニッヒは、自国のパワーや地政学を踏まえ、中立を保ち、調停者の役割に徹しました。そして、「連帯と均衡の原則」に基づき、「ヨーロッパに永続的な平和を確保したいという断固たる願望の結果」として、1815年、ウィーン議定書の締結にこぎつけたのです。
メッテルニッヒにとって、政治や外交とは国家の最も重要な利益についての学問であり、国家の最も重要な利益とは「国家の生存の保障」でした。国家の生存、すなわち、安全保障に限定された形で国益を抑制することが、その後、半世紀にわたるヨーロッパ宮廷外交の基礎となったのです。
キッシンジャーに高く評価されたメッテルニッヒは、ヨーロッパ外交史に不滅の名を残しました。彼は回想録の中で、「法こそ真の力」が自らの信念であると開陳し、次の通り述べています。
“「政治」とは、最も高い次元において、国家の生死に関わる利害問題を扱う術である。諸国家よりなる「社会」においては、それぞれの国家は、自分に固有の利害のほかに、他のすべての国家と共通の、あるいはいくつかの国家集団と共通の利害をもあわせもつものである。”(『メッテルニヒの回想録』より抜粋)
●多民族国家オーストリアの生んだ「ウィーン体制」
こうした政治によってメッテルニッヒがつくり上げた「ウィーン体制」は、フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパ秩序を再建し、その後の平和の基礎となりました。歴史上の見方は分かれますが、ヨーロッパでは、勢力均衡のもとで、1870年の普仏戦争を除いて、第一次世界大戦まで大きな戦争のない平和が100年続くことになったのです。「均衡なき平和は幻想だ」と喝破したメッテルニッヒ外交の成果といえるでしょう。
「ウィーン体制」は「保守反動」とも評されますが、多民族国家オーストリアの生存と安全、そしてヨーロッパの安定にとって、際限なき破壊と殺戮も生んだナショナリズムや革命を警戒し、その波及(つまり、自由主義や民族主義・国民国家の広がり)を阻止するためにも必要とされたのです。
この流れを味方につけたのが、フランス革命以前の状態に戻るという「正統主義」を提唱したフランスの外務大臣タレーランです。ナポレオン戦争の戦後処理で責めを負うべき敗戦国でありながら、フランスを革命の被害者であると位置づけることにより、フランスを他の大国と対等の立場に押し上げたのです。フランスの国益を守り、ヨーロッパの新たな秩序形成にも貢献した類まれなる外交手腕は高く評価されてきました。メッテルニッヒは、彼を評して、「度はずれた才能・知能の持ち主」と書き残しています。
●平和外交のビスマルクが最も恐れた「同盟の悪夢」
19世紀後半、衰退したオーストリアに代わって、ヨーロッパ大陸の勢力均衡の維持に努めたのが、名宰相ビスマルクのもとでヨーロッパ外交の核となった新興ドイツと、日の沈むことのない大英帝国でした。
小国に分裂していたドイツを統一に導いたビスマルクは、三度の戦争や「鉄血演説」によって武力重視の鉄血宰相と呼ばれてきましたが、彼の宰相としての手腕は、戦争を避ける平和外交においてこそ発揮されました。普墺戦争と普仏戦争(つまりドイツとオーストリアおよびフランス)に勝利し、小ドイツ主義(オーストリアを除き、プロイセン主導のドイツ統一を目指す運動)によってドイツ統一を果たしたビスマルクが恐れたのが、フランスの復讐戦...