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古代ギリシャ「ペロポネソス戦争」に始まる国益の歴史

国家の利益(2)ペロポネソス戦争の教訓

小原雅博
東京大学大学院 法学政治学研究科 教授
情報・テキスト
国益の歴史は、古代ギリシャに始まる。ペロポネソス戦争の歴史を記したトゥキディデスの『戦史』では、国家の利益や正義がパワーによって決まるリアリズムの世界が克明に描かれている。今回は「メーロス対談」が投げかける疑問と、「トゥキディデスの罠」について考えてみたい。(全16話中第2話)
時間:09:16
収録日:2019/03/28
追加日:2019/06/30
≪全文≫

●国益の歴史は古代ギリシャ「ペロポネソス戦争」に始まる


 さて、「国益」には長い歴史があります。ここからは、国益の歴史的変遷を振り返ってみましょう。そこから、今日の世界の変化や混乱の奥底に潜む問題の本質が見えてくると思います。

 今日の第2回目では、「ペロポネソス戦争の教訓」について、取り上げてみます。

 国益の歴史は、まさに古代ギリシャから始まります。古代ギリシャの歴史家であり将軍であったトゥキディデスが著した『戦史』(ペロポネソス戦争史)は、今日も色あせないリアリズムの古典といえます。

 紀元前431年から27年間の長きにわたって続いたペロポネソス戦争は、ギリシャ全土を破壊と殺戮に陥れました。アテナイの将軍として戦場に身を置いたトゥキディデスは、将来への教訓として残す意図を込めて、この戦争を克明に描いたのです。


●トゥキディデスの『戦史』が語る「メーロス対談」


 その中で特に印象的な記録は、スパルタの植民都市国家メーロス島に遠征し包囲したアテナイ軍の使節と、メーロスの高官の交渉を描いた「メーロス対談」です。この対談において、トゥキディデスは、国家の利益や正義がパワーによって決まるリアリズムの世界を生々しく描きました。そのくだりを紹介してみましょう。

 メーロスの高官は、アテナイとスパルタの間での中立を望み、理性と正義を訴え、攻撃が神や人民を怒らせ、スパルタ軍の介入を引き起こすだろうと申し立てます。しかし、アテナイ使節は、「強者と弱者の間では、強きがいかに大をなし得るか、弱きがいかに小なる譲歩をもって脱し得るか、その可能性しか問題とはなり得ない」と一蹴します。

 それでも、メーロス側は説得に努めます。降伏して奴隷になるか、抵抗して滅びるかの選択を迫られる中で、最後にメーロス代表は言います。「七百年の歴史を持つこのポリスから、一刻たりとも自由を剥奪する意思はない。…スパルタの加勢のあらんことを頼みに、国運安泰に尽くしたい」。こう返答して、アテナイ側に平和条約締結と軍の撤退を申し入れたのです。

 アテナイ使節は、「スパルタや、運や希望を信じて何もかも賭けて疑わぬとあれば、何もかも失ってしまうのも止むを得まい」と述べて、城攻めを続けました。そして、とうとうスパルタ軍は来ませんでした。メーロスはついに降伏し、メーロス人成年男子全員が死刑に処され、婦女子、子どもらは奴隷にされました。


●「メーロス対談」が問いかける二つの疑問


 トゥキディデスは、この「メーロス対談」を描くことで、何を伝えたかったのでしょうか?

 第一に、力の差のある二者の間に正義は存在しないのか、との疑問です。

 アテナイは強く、メーロスは弱い。メーロスが自らを守るためには自由を譲り渡すしかなく、アテナイは、それが嫌なら滅びるだけだと詰め寄ります。そこから見えてくるアテナイの覇権は正義ではなく、強大なパワーと過剰な自信に支えられたものだといえます。力の前に正義など存在しない。そんな台頭国家の傲慢や過信は、その後のアテナイのシケリア大遠征を壊滅的失敗に終わらせる要因となりました。

 正義なき秩序は持続し得ないでしょう。メーロス対談は、正義を軽んじ、力に溺れた国家の打ち立てた秩序と国家自身の結末を暗示する対話だといえます

 第二に、圧倒的な力の差を誇示する大国を前にした弱小国家は安全を最優先すべきであり、そのためには正義や自由も諦めるべきなのか、との疑問です。

 メーロスは国家・国民の生存や安全ではなく、正義や自由という価値に国運を賭け、その結果、国家も国民も滅びました。メーロス軍がアテナイ軍に勝てる見込みは皆無だったし、同盟国スパルタが救援に来る保証もありませんでした。全ては希望的観測にすぎなかったのです。情勢判断や情報収集の不備が国家の命運を左右したといえるでしょう。

 国家・国民の生存と安全は、あらゆる国家にとって最重要の死活的国益であり、メーロスの指導者は国家存亡の時にあって、それ以外の国益など全て犠牲にしてでも、それを守り抜くべきだったのではないでしょうか。国家が滅びては、正義や自由は何の意味も持ちません。


●力なき正義は実現されないが、正義なき力も持続しない


 著名な国際政治学者であるE.H.カーが指摘した通り、(大国によって築かれる)国際秩序においては、パワーのみならず道義の要素も無視できません。力なき正義は実現されませんが、正義なき力も持続し得ません。この力と正義の関係を無視しては、力ある大国も衰亡します。また、正義を掲げたとしても、それが普遍性を欠く独善的な「正義」であれば、そんな大国による秩序は定着し得ないでしょう。

 一方で、メーロスのような小国が、自由や正義を安...
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