●「弱肉強食」の国際社会に放り込まれた近代日本
第6回の講義を始めたいと思います。今回は「近代日本の国益とパワー」について、お話をしていきましょう。
近代において、日本にも欧米列強の帝国主義の影が忍び寄っていました。
しかし、江戸時代の長い鎖国の間、ほとんどの日本人は国家を意識していませんでした。支配階級であった武士は、日本という国家への帰属意識より自らの仕える大名への忠誠と大名の治める藩への帰属意識を強く持っていたのです。彼らは儒学や漢学を通じて文化や知識としての中国を認識していましたが、それは政治や経済といった現実の世界で語られる国家として認識したものではなかったのです。したがって、日本という国家への認識も薄いものでした。
そんな時代に突然現れた黒船が、世界、そしてその中での日本という国家の存在を意識し、そのあるべき姿形を論じ、追い求める時代の扉を開いたのでした。明治は、まさに日本という国家を近代国家としてつくり上げていく時代でした。
ビスマルクは、明治6(1873)年3月9日、建国直後のドイツの首都ベルリンを訪れた日本の岩倉使節団に対し、こう述べています。
「大国は自分に利益がある場合は国際法に従うが、ひとたび不利とみればたちまち軍事力にものを言わせてくる。」
そんな弱肉強食の国際政治の中に放り込まれた日本は中国(清)と戦って勝利しましたが、ロシアなどの三国干渉により苦汁を飲みました。当時の外務大臣・陸奥宗光は、名著『蹇蹇録』において、「兵力の後援なき外交はいかなる正理に根拠するも、その終局に至りて失敗をまぬかれざることあり」と書き残しています。
●日露戦争で日本の国益を守り抜いた児玉源太郎と小村寿太郎
日露戦争が近づく1900年には、日本の軍事費は国家予算の45パーセントを超えました。国民も「臥薪嘗胆」に耐えて、戦争に備えました。
日露戦争の開戦直前、児玉源太郎参謀長は、元老の伊藤博文に対し、「ロシアを相手に2年以上戦ったら惨敗する」と述べて、アメリカへの仲裁要請に動くよう頼んでいます。そして、小村寿太郎外相は、疲弊しきった軍事力と払底した財政力という現実を直視し、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲介でロシアとの講和条約をまとめ上げたのです。
その内容は、旅順・奉天会戦...