●政治システムの量と質の割合の変化
摂関政治から院政へというと、これは政治のスタイルというものが、どの部分が一番顕著であるかという言い方です。ですから、院政というのは別に平安末期あるいは鎌倉初期で院政がなくなるわけではなく、上皇というのはずっと江戸時代まで、院というかたちで存続しました。
同じように、摂関家という言い方をする摂関政治というものも、摂関家によって主導された政治システム、政治体制で、これを「摂関政治」と呼ぶわけですが、摂関そのものの立ち位置はずっと存続するわけです。武家の鎌倉時代になっても摂関家は存続します。
ただ、その政治システムとしての量なり質の割合がやはり変化してきているということで、われわれが摂関政治だとか、院政だという呼び方は、その同じ中の量の部分で、特に質的に非常に大きな画期になった期間のことを「摂関政治の時代」とか、あるいは「院政の時代」というように呼んでいるのです。
ですから、その時代の呼称が終わったからといって、もうその政治システムが解消して、解体してなくなったわけではありません。これも頭の中に入れておいてほしいと思います。
話は変わります。先ほど三平時代から三道時代のお話をしましたが、三平時代というのは9世紀から10世紀、それは摂関体制、摂関政治に移行するためのウォーミングアップの時期であって、三道時代というのはまさしく摂関政治が確立されていく時代です。その間に、およそ1世紀間の開きがありますという話をしたと思います。
三平時代というのが時平、仲平、忠平です。それから三道時代が道隆、道兼、道長です。こういう形での呼び方ですが、その間の媒介をなした人物というのが、三道の父親および祖父にあたる、藤原あるいは九条師輔(もろすけ)という人物です。その師輔の息子が兼家という人物です。
この師輔とか兼家は、三平時代を経て、三道時代に移りゆく際の媒介項になった人物というふうに考えていただければと思います。
●三道時代で摂関政治の最大勢力を構築
この師輔なり兼家の時期というのは、三平のブロックと三道のブロックは摂関家が独自の形で力を持ってくるときであり、まずは藤原北家が政治的に権力を握る際に、他の諸勢力である藤原氏以外の、古代以来の名族とされている一族がたくさんいまし...