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「芋粥」に登場する藤原利仁からわかる地方下向の理由

「武士の誕生」の真実(5)俘囚の役割と武士団のルーツ

関幸彦
日本大学文理学部史学科教授
情報・テキスト
律令体制の解体に伴い、北と南の軍事課題に直面していた当時の政権は、その鎮圧をどうするかに苦心していた。そこで考え出された方策が「夷を以て夷を制す」。つまり、北で反乱を起こす蝦夷勢力を、南で問題となっていた新羅海賊への軍事に転用させることである。彼らは「俘囚」と呼ばれ、優れた武力を持っていた。そこで重要になるのが彼らを束ねる軍事指揮官。そこが武士団のルーツへとつながっていく。(全8話中第5話)
時間:14:26
収録日:2021/10/22
追加日:2022/01/12
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≪全文≫

●北と南で起こっている軍事問題にどう対応するか


 いわばその辺境地域であるかつての東北方面と九州方面に軍事課題がとても山積していました。

 大前提として、律令体制の場合の軍事力は、農民たちが兵士になっていきます。「正丁」と呼ばれる成人の農民たちが、3人に1人の割合で軍団に配置されて、兵士の訓練を受けていきます。そのため、徴兵と同じで、一種の税の対象になっていきます。しかし、この軍団制が律令体制の解体に伴って機能しなくなってきます。そうすると、地方の騒擾や騒乱を一体誰がどういう形で鎮圧していくかが課題になっていきます。

 かつて律令時代はそうした軍団が鎮圧に勤しみましたが、それができなくなった段階で、同時多発的に辺境における軍事課題として起こったのが、北の方面では蝦夷の問題、南の方面では新羅海賊の問題です。

 つまり、非常に緊急的な課題が辺境の中では山積していました。この山積している部分に対応しようとしても、軍団が解体してしまった状況の中では上手く機能し得ません。これをなんとか打破するための方策が、いわば「夷を以て夷を制す」です。つまり敵を以て敵を制するという方策、戦略が取られていきます。

 具体的にいうと、日本国が北と南にこの2つの軍事課題抱えていたときに、北の「俘囚(ふしゅう)」の勢力、あるいは蝦夷たちの勢力は大変戦いに優れていました。ある資料によると、蝦夷たちの武勇は、班田農民の10人分にも相当するぐらいに優れた武力を有していたといいます。そのため、この優れた武力をうまく転用することが課題になります。


●俘囚を転用することで「夷を以て夷を制す」


 「俘囚」は、中央政府に帰順、帰属した蝦夷たちのことを言います。武力その他、諸々の政策によって、昔抵抗した「えみし」「えぞ」と呼ばれる、辺境の民である蝦夷たちの帰順が成されました。ですから、俘囚という言葉の中には、天皇の王化(おうか)に帰するという意味があります。

 農民たちで軍団戦がうまくいかなくなり、自分たちの徴兵制が立ち至らなくなった段階で、俘囚の連中に彼らを養うだけの「俘囚稲」という稲の税を支払うようになります。農民はそれを支払うことで徴兵的な税を免れる代わりに、俘囚稲という形の租税を国家に出すのです。そして、国家はその税を俘囚たちの給与に充てます。簡単にいえば、給料に充てることによって俘囚たちを養うのです。

 つまり、農民の租税の一部を利用しながら俘囚たちを養い、養った俘囚たちの武力を転用していきます。転用した場は、騒擾事件や、その他騒乱事件が最も勃発しているエリアです。9世紀から10世紀にかけてものすごく勃発したエリアは、関東地域や瀬戸内海の地域、北九州で、こういうところに俘囚の勢力を分散配置していきました。

 つまり俘囚たちが騒乱を起こしたり、反乱を起こしたりする最大のポイントは、その地域に居住させられていることです。その地域との関係の中で結束して反乱を起こすので、それをうまく打破することによってエネルギーの分散化を図ります。

 分散化を図ったのは、関東、瀬戸内、北九州です。特に北九州は新羅海賊が横行跋扈していました。この新羅海賊を打倒するために、まさしく「夷を以て夷を制す」という言葉通りに、武勇に優れている俘囚の勢力を新羅海賊との対決のために転用しました。そういう政策が提案されていくことが大きなポイントです。


●次なる課題は俘囚をどうコントロールするか


 以上のように、俘囚の構成力が武力的に非常に秀でていたため、その軍事力を新羅海賊の防衛に充てました。これは人的関係のエネルギーの転用です。このように、旧来の兵士に代わって、量的な形で軍団の兵士を補完・補充し、俘囚の武力を転用させていくことは良いのです。しかし、問題はその量的な部分を担保する質的な部分、簡単にいうと軍事指揮官が必要になってくることです。

 従来はその軍事指揮官として、「健児制(こんでいせい)」という桓武天皇の時代に採用された政策がありました。健児制は、主に郡司や国司の子弟等が登用されますが、実際には中下級官人の存在がとても大きかったのです。

 しかし、現実にはそれだけではやはり彼らの武的な勢力を十二分に活用し指揮することができませんでした。そこで、中央から下向する皇胤の貴族の貴種たちが、その補充要員として採用されていきます。

 現実には、皇胤貴族たちが地方・地域に下ると、中央政界においてなかなか出世の望みが立ちません。もちろんこれは藤原摂関政治以前の状況なので、摂関系が人事権を全部独占していたがゆえに地方に下るという構図では必ずしも整理できません。

 地方に下ること、すなわち、辺境という要素の中には、何となく生産力が低くて、うま味がないと観念的に思いがちですが、武士...
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