テンミニッツTV|有識者による1話10分のオンライン講義
ログイン 会員登録 テンミニッツTVとは
テンミニッツTVは、有識者の生の声を10分間で伝える新しい教養動画メディアです。
すでにご登録済みの方は
このエントリーをはてなブックマークに追加

奥州十二年合戦、契機は辺境軍事貴族の「ルール無視」

「武士の誕生」の真実(7)奥州藤原氏と奥州十二年合戦

関幸彦
日本大学文理学部史学科教授
情報・テキスト
藤原清衡
出典:Wikimedia Commons
「将門追討3人衆」の一人、藤原秀郷はその後、平泉を中心に11世紀ごろから勢力を拡大していく。その末裔にあたるのが藤原清衡の父親で、息子の清衡は「奥州藤原氏」の始祖となる。ちょうど同じ頃、俘囚の末裔で辺境勢力である安倍氏と清原氏が反乱を起こす。「奥州十二年合戦」と呼ばれるこの戦いは、これまで中央政府への反抗として捉えられていた。しかし近年は、請負という観点からその理解が見直されつつある。(全8話中第7話)
時間:12:31
収録日:2021/10/22
追加日:2022/01/26
タグ:
≪全文≫

●平将門を打ち落とした藤原氏が力をつけて勢力を拡大していく


 さて、10世紀に「将門の乱」が軍事貴族を制度的に輩出していく1つの大きなポイントになったことを説明しました。「将門の乱」を追討した勢力が、そう呼んでいいか分かりませんが、いわゆる「将門追討3人衆」です。その3者とは、源経基、藤原秀郷、そして平貞盛です。この3人の末裔として、源経基の最終的な末裔が源頼朝になり、藤原秀郷の末裔が奥州藤原氏になっていき、そして平貞盛の末裔が伊勢平氏に入っていって平清盛になります。つまり、ある意味では12世紀末の内乱期は、10世紀の段階に「将門の乱」を追討した3人衆の末裔たちの争いでもあったと考えていいと思います。

 それはともかくとして、10世紀に将門を追討した連中たちは、軍事貴族の恩賞を与えられました。また、軍事貴族の恩賞を与えられた時に、多くは関東に地盤を残しつつ、それぞれの地域に勢力を拡大していきました。とりわけ、藤原秀郷は将門を射た張本だったため、将門の死命を制した大きな功績がありました。その意味では、源経基や平貞盛が五位の位階であるのに対して、五位よりランクの高い四位の位階を与えられました。そして、鎮守府の将軍になります。その秀郷の流れに属するのが奥州藤原氏です。

 この奥州藤原氏は、11世紀から12世紀の約1世紀間、実際には平泉を中心に勢力を拡大していきます。その奥州藤原氏の始祖にあたる藤原清衡という人物がいて、有名な藤原秀郷の末裔が清衡の父親になるのです。

 そういう意味で、「奥州藤原氏」のことを、最近では「平泉藤原氏」と呼ぶのが一般的になりつつあります。平泉藤原氏という言い方の背景にあるのは、奥州ほど実は全域を支配してはいなかったことがあります。「奥州藤原氏」という表現は少し過大評価で盛られているので、もう少し等身大で奥州藤原氏を考えると、やはり「平泉藤原氏」のほうが妥当ではないかという解釈があります。


●調教主義から見直される、辺境勢力と中央政府の関係


 それはともかくとして、この奥州(平泉)藤原氏は清衡を始祖とします。実はちょうど同じ11世紀中頃、1050年代にいわゆる「前九年の役」と呼ばれる「前九年合戦」がありました。それから、11世紀の1080年代に「後三年の役」がありました。

 前九年は主に太平洋側の陸奥を、後三年は日本海側の出羽を舞台にしました。陸奥の前九年の役の主役を成したのが安倍氏です。そして、後三年合戦の主役を成したのが出羽の清原氏です。

 安倍氏と清原氏はともども俘囚の末裔とされました。昔は、この俘囚とその末裔という存在が中央政府に盾突いてその支配に対して反抗していったので、これを打倒していく。つまりこれは、ある意味では負の遺産を擁した辺境の勢力が消滅させられていったという構図でした。

 しかし、昨今ではそこに関する理解は変わってきています。安倍氏も清原氏も、もちろん実際に俘囚の末裔ではありますが、安倍氏や清原氏を俘囚であるからといって調教していくという「調教主義」については少し是正すべきであるという考え方が出てきています。王朝国家の大きな理念である「請負」という形で考えていくと、王朝の中央政府は、安倍や清原の勢力を俘囚だからといって調教していくことを実は諦めて、むしろその自治を認めて、そこの支配を請け負わせる。ある意味ではその地域支配の名士として、ボス的な役割を認定していくという整理の仕方が出てきました。

 安倍氏が11世紀の半ばに衣川から南に侵攻・進出していきますが、これに対して王朝国家側(中央政府側)が「ルール無視である」ということで何とか押し止めるようとします。したがって、そうした中央政府側との軋轢から起こったのが「前九年合戦」でした。この安倍氏の前九年合戦の当時の言い方は「奥州十二年合戦」で、「前九年の戦」や「前九年合戦」は、後に軍記作品として登場してくる中で呼ばれる言い方です。12年間にわたる闘諍(とうじょう)事件として、「奥州十二年合戦」というのが当時の正しい言い方でした。

 結果的に安倍氏は敗北しますが、重要なことはその「十二年合戦」の時に、安倍氏に味方する勢力が結構いたことです。陸奥の在庁官人の勢力も実は安倍氏と同じような基盤を持っていました。また、婚姻形態で安倍氏に比較的近い存在も多くいたと言われていて、思っていたほど、安倍氏と地域の在庁官人との関係が隔絶されていて距離があったわけではありません。安倍氏もある意味では、胆沢城(いさわじょう)を中心としたこういう勢力の一環として組み込まれていました。別の言い方をすれば、王朝国家の辺境地域における出先機関の代表だったのです。昨今ではそれを「辺境軍事貴族」と呼んでいます。

 そのため、軍事貴族と...
テキスト全文を読む
(1カ月無料で登録)
会員登録すると資料をご覧いただくことができます。