●「死ぬことだけを覚悟すればいい」
―― 日本の統治者、行政を束ねる人たちは、とても立派な人たちでした。人の痛み、人の心の喜ばせ方といったものが分かる人が登用されている。それは、ベースに儒教的なものがあるからですか。
山内 あると思います。やはり「仁」という思想です。仁という思想は、非常に大事な儒教の骨格で、今風にいえば、「ヒューマニティー」「人道主義」「人道愛」といった言葉に繋がっていきます。これは、武士階級、あるいはエスタブリッシュメントの大きな仕事は下の人々――いわゆる町人、職人、農民といった人達――に対して、慈しみをもって支配しないといけないということです。
なぜなら、彼らの税――農民からの年貢、商人からのさまざまな冥加金(みょうがきん)――によって、幕府、大名、ひいては武士は最終的に、禄高、俸禄米(蔵米)などを得て、生活しているからです。
そういう意味でいうと、彼らには「不労所得者」という自覚があるのです。いざというときは国防も必要であり、また社会的安定・治安の維持のために、彼らは自分の命を覚悟しなければならなかったでしょう。そのような責任感や自覚を持っての武士なのです。
埴谷雄高(はにやゆたか)という、作家がいるのですが、とても的を射たことを言っていました。彼は吉本隆明(よしもとりゅうめい)と並んで、戦後の文学に大変大きな影響を与えた人で、『死霊』という作品で知られています。埴谷さんは武家の出身で、それを強く自覚している人でした。もともと本名は「般若豊」といい、般若をもじって「埴谷」としたそうです。
その彼がエッセイで「武士とは何か」について、「死ぬということだけ覚悟しておけばいい」と書いていて、私は感心しました。「何かある時に、死ぬことを恐れてはダメです。死ぬことのために彼ら(武士)は、庶民たちに普段食べさせてもらっているのです」「何かあったときに、自分が犠牲にならないといけない。自分の命を差し出す覚悟さえあれば、武士は務まる」と。非常に簡単な言い方ですが、「武士とは何か」ということについての簡潔な定義だと思います。
何かあったときに、農民や商人や職人たちに責任を委ねて逃げたら、武士ではない。武家や武士は、いろいろな犯罪者が出てきて、庶民たちが苦しんだり生命の危機に陥ったりしたときに、そこに立ちはだかって相手と渡り合って斬り合わないといけない。治安を守ることも含めてです。それを担っていくのは武士ですから。
―― そういう意味で、武士道や『葉隠(はがくれ)』そのものだったのですね。
山内 『葉隠』は佐賀鍋島藩あたりで、作られたものですね。基本的に『葉隠』は、極端なことを言っている。もともと武家思想を極端化したらどうなるか、ということを山本常朝(やまもとじょうちょう)が語ったのです。たしかに極端な表現だけど、その基礎にあるものは、武士誰もが同じことです。
―― 何かあったときに、自分の命を投げ出す。その構えができていれば武士だと。
●赤穂浪士の仇討ちに潜む矛盾
山内 だから、赤穂浪士(あこうろうし)の仇討ちも、実はおかしいのです。主君(浅野内匠頭長矩)の切腹は、吉良上野介ではなく将軍・徳川綱吉が命じたのです。そのことは、赤穂浪士も自覚している。「公儀の仰せで、主君の嗜みの無さによって、このようなことになった。それは甘んじて受ける」と。だから、公儀に対して直接的に復讐しようとか、異議を申し立てるということは形式的にはありません。
赤穂浪士は、主君がそのようにやむを得なかったとしても、城中でやった、刃傷に関わる行為が間違っていると認めているわけです。
赤穂浪士四十七士の一人である大高源吾忠雄(おおたかげんごただお)が、母上に出した手紙があります。その手紙は、女性に宛てた言葉なので、平仮名で分かりやすく書いてある。その資料にも、大高源吾忠雄は「公儀に歯向かうものでもない。また主君が誤ったことで逆上して吉良に斬り付けたことは殿中でふさわしい行為とはまったく思えない。しかし、主君にそういうことをさせた吉良上野介の行為もある」と書いている。幕府にとっては主君の行為は非常にけしからんことだけれども、吉良に対する一念というものに対して、われわれは継承して吉良に復讐の刃を向けたのだ、という主旨です。
吉良に対する自分たちの仇討ちや復讐が法律的に許されるかといえば、それが無理であることは分かっているわけです。だけど、自分たちもそこで命を捨てる覚悟を示さないと武士ではない。このような戦国生き残りの論理といったものが、元禄の時代にも依然としてあったということです。
―― 戦国時代から100年以上たっていますが、それでも残っているわけですね。
山内 それを忘れてしまったら、武士ではなくなってしまうとい...