●悲劇の二代将軍・源頼家の遺児=公暁の動向
―― さて、非常に順調に行っていたそのときに……、ということになってきます。
坂井 京都でも鎌倉でも多くの関係者が、この(親王将軍)プロジェクトを成功させるために動いています。しかし、ただ1人不満を持っている人がいる。それが、(源)頼家の遺児である公暁(こうぎょう)です。彼は、園城寺の非常に有名な高僧である公胤(こういん)という人の弟子になり、「公」の字をもらって公暁と名乗っていました。かつては「くぎょう」と呼ばれていましたが、間違いであることがいろいろな史料からわかってきました。
その公暁がたまたま(鎌倉に帰ってきます)。これが1~2年ずれていれば歴史は大きく変わっていたはずです。建保5(1217)年に鶴岡八幡宮の三代別当が、寿命により亡くなってしまい、欠員ができたため、まだ園城寺で修行半ばの公暁を(北条)政子が呼び寄せました。そして四代別当に公暁がおさまります。
そのときには、まだ親王将軍のプロジェクトは動いていません。鎌倉に戻ってきた頼家の息子の公暁が、「これは何か、一つの啓示なのではないか」「神仏の助力なのではないか」というふうに考えてもおかしくありません。つまり、鶴岡八幡宮の別当ではなく、自分こそが将軍になるべきではないか、と思うのです。
公暁の母親は賀茂重長の娘という源氏の血筋であり、源為朝の孫娘です 。だから(源)頼朝は、頼家の次は賀茂重長の娘が産んだ公暁を三代将軍にしようと考えていたらしいと思われます。
そのことを長じて聞いていた可能性のある公暁は、鶴岡八幡宮の別当では満足しないわけです。せっかく鎌倉に戻ってきたのだから、なんとか自分が将軍になりたい。そのためには、(源)実朝に退いてもらうか、死んでもらうしかない。そこで、おそらく呪詛を始めたのだと思いますが、一千日の参籠(さんろう)を行います。当時、「呪い殺す」ということはありうると多くの人が信じていた時代で、しかも園城寺で修行を積んでいたため、そういう手に出たのだと思います。
●「北条義時=黒幕説」を検証する
坂井 しかし、彼が一千日の参籠をしている最中の建保6年の1年間で、親王将軍のプロジェクトが目の前で実現しようとします。親王が将軍になれば、もう(源)実朝どころではなく、公暁が将軍になる目はまったくなくなります。
しかも、当...