●父・北条時政に汚名を着せた北条義時の思惑
―― この事件(畠山重忠の乱)はそれだけに終わらなかったということになるわけですね。
坂井 そうですね。134騎しかいなかった彼らが謀叛を起こそうとしたはずがないということは、誰の目にも明らかでした。だから、鎌倉に戻ってきた北条義時はそれを声高に唱えるわけです。このことは同時に、北条時政が無実の重忠を滅ぼした、つまり北条時政が悪いということになります。
私の考えでは、義時は三浦氏に敵(かたき)討ちのカタルシスを与えるための口実として、「自分も畠山追討の大将軍になった。畠山氏は無実だが、自分(義時)たちは討たざるを得ず、それを命じたのは執権である父の時政だ」ということを、他の御家人たちに目の当たりにさせる、そのような策略があったのではないかと思っています。
義時はなかなか頭のいい男なので、ずっと控えていて前面には立たないのですが、常にいろいろなことを考えている。そして、ここぞというときに行動を起こす人です。したがって、重忠には申し訳ないけれども、この局面を使うしかないという決断を下し、行動を起こした。そのように私は考えています。
結果的に、「時政が無実の重忠を討たせた」という汚名を着たことになり、御家人たちの支持が衰えます。
そこで、北条政子と義時の姉弟は行動に出ます。時政から権力を奪わなければいけない。ということで、政子は実朝の実の母親であり頼朝の後家という立場で、重忠追討の論功行賞を行うのです。これは、いわば将軍権力を代行するということになります。もちろん義時の承認の下といいますか、義時がそのようにしようと持ちかけたのだと思います。
●源実朝をめぐる父・時政と義時・政子の虚々実々
坂井 時政にとっては自分の権力が脅かされる状況になり、相当追い込まれたと考えざるを得ません。なんとか義時と政子の手を封じなければいけない。そこで一番効果的なことは何かといえば、政子は頼朝の後家ではありますが、権力の源泉は現将軍・実朝の母であるというところにありますから、その実朝を自分(時政)たちのところに取り込んでしまうということです。
まず、将軍御所にいた実朝を、鎌倉の南東の位置にある「名越邸」という時政の館に連れてきてしまう。要するに実朝の身柄を確保するということをします。これは、場合によっては実朝の命が奪...