●北条氏の傀儡ではなく、「将軍親裁」を実行する源実朝
坂井 源実朝は源頼家と対照的で、非常に文化的・平和主義的なところの強い人でしたから、北条政子と諍いを起こすこともあまりありませんでした。さらに朝廷との関係もどんどんよくしていきます。
実朝に対しては「北条氏の傀儡だろう」などといわれたりしますが、実際には大きな間違いです。北条時政が権力を握っていた当時、実朝はまだ14歳ぐらいでした。その頃ならともかく、将軍家政所を開けるようになった18歳以降を見ていくと、「将軍親裁」といわれるように直接政治的な権力を握って、政策を実行に移していきます。
「将軍家政所下文」というものも出されていますし、その前には「袖判下文」というものを出しています。これは源頼朝と全く同じで、父・頼朝も「将軍家政所下文」「袖判下文」を出しています。
論者によっては、「それは単にハンコを捺すだけでしょう。内容としては北条氏が執り行っているのだから、それでは傀儡だ」と言いますが、では同じ形式のものを出した頼朝も同じだったのか、ということです。頼朝は政所を通じて自分の考えを伝えて行わせていたが、実朝は傀儡で単にハンコを捺していただけというのは論理的に矛盾があります(実際にはハンコも本人が捺すわけではありませんが)。
実朝の場合、「将軍家政所下文」はもちろんのこと、それ以外にも「このような命令を下した」という事例がいくつも『吾妻鏡』の中に載っています。ですから、彼が権力を持たない傀儡だったなどということは、まずあり得ないのです。
そもそも(実朝は)義時たちをも含めた御家人たちの主君であり、頼朝の子どもですから、この時期にそう簡単に傀儡化することなどできません。
実朝の場合、非常に特徴的なのは、当時朝廷の最高権力者である後鳥羽院から「実朝」という元服後の名前をもらっていることです。また、御台所(正妻)としても後鳥羽院のいとこをもらいました。これらを考え合わせると、非常に強い権力を持つ後鳥羽院との関係、すなわち朝廷との関係をよくするには、実朝を立てるしかありません。
そのような中、実朝はどんどんとリーダーシップを発揮していき、それを義時が支えていったということです。
●執権として源実朝の考えを実行する役割を担った北条義時
坂井 今まで、義時はあまり話の中に出てきませんでした。なぜかというと、自分は表に立たずに常に陰に隠れて支えるという慎重で聡明な行動に徹する人だったからです。
ですから、政所の筆頭の別当――政所には何人も長官(=別当)がいますが、その筆頭の別当を「執権別当」と呼び、略して「執権」といいます――その執権の地位にある。執権の地位は政所の合議の議長のようなものです。政所自体のオーナーは将軍ですから、いわば重臣会議の議長とそのトップ、つまり議長よりも上に主君がいるという関係になります。彼は政所という組織の中で議長を務めつつ、実朝の考えを実行に移していく役割でした。
昔も今もトップに立つ人は細かいところまでは指示しません。「こういう方針でやれ」と言って、細かいところは下の人間が合議を行い、さらにその下の人間に命令していく。現代でもそうであるように、この当時もそうでした。
ですから、実朝の権力は朝廷との関係からいっても実際に存在していましたし、それはなくてはならないものでした。それに対して、政子が満足をしていることも明らかに見られます。
―― そうなのですね。
坂井 実朝の御台所として都から後鳥羽院のいとこが下ってくるのですが、そうすると、政子は一緒に牛車に乗り、いろいろなところに出かけたりしてその御台所を立てていました。
また、『吾妻鏡』には頼家に対して「ひどいことを言った」ということが書いてありますが、実朝に対してはそんな記述はほとんどありません。
●「親王将軍」を構想、源頼朝を超える地位に上り詰めた源実朝
坂井 最終的に実朝は後継者に恵まれず、つまり子どもが生まれませんでした。ではどうしようかというときに、個人的なつながりの深い朝廷の最高権力者・後鳥羽院の皇子(親王)を鎌倉に下してもらい、自分は将軍職を辞して親王を補佐する形を取る、すなわち「親王将軍」を立てようという構想を首脳部に漏らしていたと思われます。これはいわゆる「公武合体」ともいえます。
将軍家政所で合議が行われた結果、政子と義時の弟である北条時房(政所別当の一人)が使者となり、京都まで出かけて「親王をください」と申し出ます。政所の筆頭別当、つまり執権である義時がこの使者派遣に関わっていないわけがありません。ということは、実朝の考えを北条氏も全て応援し、幕府一体となって後鳥羽院の親王を迎え入れようと...