●源頼朝の懐刀だった梶原景時の滅亡
―― (承久の乱から北条政権確立に向かう)大きな流れがある一方、鎌倉幕府の内部でも抗争があります。これまでに源頼家を支えるための13人が選ばれたという話がありましたが、そのメンバーが次々と粛清されていくことになります。
頼家の最もそばについていた比企能員が、頼家が危篤になったときに立ち上がろうとして倒されてしまう「比企の乱」のお話もありました。これ以外の人たちも、それぞれに倒されていく過程があると思うのですが、これらはどういう理由で起きてくるのでしょうか。
坂井 最初に粛清というか、御家人同士の抗争で殺されたのは梶原景時です。景時は源頼朝の懐刀の役割をずっと担っていました。頼朝は当然、嫡子の頼家のもとで源氏を発展させようとしていましたから、景時は頼朝の遺志を継ぎ、頼家に近い立場を取っていました。ただ、この人は頭はいいのですが、性格が悪かったのか、人望がなさすぎました。それで、北条氏や比企氏など誰かの主導ということではなく、66名におよぶ御家人たちから糾弾されてしまいます。
―― なるほど。
坂井 これは、景時がよほど皆から憎まれていたということですね。
―― そうですね。
坂井 ですから、これは抗争というよりは、頼朝という支えがなくなって景時が自分の立場を失ってしまったことの現れだったと考えられます。
―― (頼朝在世時の他の御家人たちの)恨みが噴出したということですね。
坂井 そうですね。
●単なる地域紛争も北条氏にとってはライバルを打倒する大事な戦い
坂井 景時の滅亡は、この後、鎌倉幕府で起こってくる御家人の間の抗争の中では割と特殊なことです。
北条氏は景時以外にも、自分たちの権力を得るためにいくつかの御家人たちをつぶしていきます。「族滅」(一族滅亡のこと)という言葉がよく使われます。ただ、一族滅亡といっても、女性や子どもまで殺してしまうわけではありません。主流の者たちだけが殺されてしまうのですが、歴史学では「族滅」といわれます。
比企の乱とその後の畠山重忠、北条時政自身、さらに和田義盛という4つほどが大きな抗争でした。「血で血を洗う争い」などと激しい言い方がされますが、私にいわせると、これは日本全国の視点でみれば「地域紛争」にすぎません。鎌倉で地域紛争が起こっている時も、全国的にはなんら大きな波風は立っていなかったからです。
源平の合戦は全国的な動乱でした。承久の乱もそうです。しかし、その間に挟まっているのは、要するに主導権争いでした。しかも関東の一部ローカルな出来事で、北関東には影響せず、南関東だけで起こっているという規模のものです。ですから、私はそれほど大きく「族滅だ」「抗争だ」とは取り上げていません。
ただ、のちの歴史から見ると、北条氏が成り上がっていく上では欠かすことのできない、ライバルを打倒する戦いであったと意味づけることはできます。
●都にまで影響を及ぼした和田合戦、「官軍対賊軍」という構図へ
坂井 特に畠山氏と和田氏の場合、一族がそれぞれ強大な力を持つ武士団なので、それらをつぶさないと北条氏は中心に立てません。伊豆で頼朝とともに挙兵した時の北条氏と比べると、畠山氏も三浦一族に属する和田氏も、はるかに大きな武士団です。成り上がってきた北条氏からすれば、彼らを追い越さなければ将軍に次ぐナンバー2にはなれないということです。
そこで、さまざまな手練手管や策略を使いました。重忠に対してはその顕著な事例です。これにより武蔵国に対する支配権を重忠から奪い取ることに成功しますが、無実の罪で重忠を滅亡させたことが、逆に時政の墓穴を掘る形になります。重忠が亡くなった後、2ヶ月ほどで時政自身の失脚へとつながっていくのです。
抗争として都にまで影響を与えるほど大きかったのは「和田合戦」です。これは、2日にわたって鎌倉中が火の海になるような大激闘でした。ですから、「実朝も殺されたのではないか」「義時も殺されたのではないか」という噂が京都まで伝わります。
―― それほど大きな戦いだったのですね。
坂井 はい、それほど大きな戦いだったのです。和歌で有名な藤原定家という人物がいます。「百人一首」を編纂したともいわれる大歌人ですが、彼の残した『明月記』という日記があり、その中に京都に入ってくる関東の情勢が刻一刻と書き付けられています。
これはかなり生々しいもので、まさに事件が起きた時と同時代に残された記録、すなわち「同時代史料」といえます。もちろん伝聞情報ですから間違いもあり、「実朝も殺されていた」と書かれていたもののが、後で「あれは間違いだった」と驚いたとか、「この人も殺された」ということが間違いだったと分かってきます。そうした記述を見ていくと、...