●源頼朝と北条政子の望みがかなった北条義時と八重の結婚
坂井 これまでの物語には貴種流離譚というパターンがあるため、八重の話は途中から消えてなくなってしまい、その後どうなったかは分かりません。それと同時に『平家物語』と『曽我物語』、特に『曽我物語』は北条氏の立場から書かれているらしいのです。そうすると、2番目の妻として「御台所」になった北条政子を立てないといけないわけです。
そこで八重のことは書かずに、政子は優れた女性だったということを強調します。そのため、八重については分からないといわれていたのですが、事実としてはおそらく生き続けたのでしょう。最初の妻として悲しい別れを強要された八重を頼朝が放っておくわけはありません。ということで、どんな形かははっきり分かりませんが、おそらくは引き取ったのだと思われます。
政子にはちょっと嫉妬深いところがありました。今の妻が政子で前の妻が八重だとすると、これはなんとかしなければいけないと考えるのが女性として当たり前の話ですよね。その頃、政子の弟の北条義時が頼朝の側近として近くで仕えるようになります。そうなると、事情をよく知っている義時のところに八重を嫁がせてしまうのが一番安心です。もちろん頼朝にとっても、わけの分からないどこかの御家人のところに出すよりも、自分の側近である義時と八重を結びつければ、そんなにデメリットはない。ということから、おそらくは義時と八重を結婚させたのではないかと考えています。
―― なるほど。
●二人の「阿波局」に秘められた謎
坂井 頼朝は義時と八重だけではなく、北条氏の娘と他の御家人、あるいは「この御家人とあの御家人の娘」というように何組も結婚の仲介を行っています。
―― 当時、そういう縁組が勢力圏を広げる一つの手段にもなるわけですね。
坂井 そうですね。頼朝の(異母)弟に「阿野全成(あのぜんじょう)」という僧がいますが、彼は政子と義時の妹、後に「阿波局」と呼ばれる女性と結婚しています。頼朝自身も流人で、ほぼ天涯孤独、身内というものがほとんどいません。したがって、政子の実家は非常に大事な身内です。逆に北条氏からいうと、それが彼らの権力の根本的な支柱になるわけです。
そんな頼朝にとって、身内を結婚させることは身内を増やすことでした。さらに、御家人と御家人の間の仲介をすることにより、自分が影響力を与えるという政策を取っていったのだろうと考えています。そのうちの一つとして、義時と八重が結ばれる。そのことは、政子の望みにもかなっているわけです。
そうなると、二人の間には当然、子どもが産まれます。寿永2(1183)年に北条泰時が生まれたことは、事実としてはっきり分かっています。なぜこれが分かるかというと、泰時は3代執権になって「御成敗式目」をつくるなどの功績を残した、非常に有名な人ですから、彼が死んだときに何歳で死んだのか記録されています。そこから逆算していけば寿永2(1183)年に誕生したことが分かるのです。これが八重と義時が結婚してちょうど1年後ぐらいに当てはまります。
―― なるほど。そうするとタイミング的にも非常に蓋然性が高いということですね。
坂井 そうです。ここからは私の仮説ですが、泰時の母親はこれまではっきりせず、「阿波局」という名で御所に仕えていた女官だったということしか分かっていません。しかし、先ほどの話をそこに持ってくると、八重を自分の近くに置きたい頼朝は、おそらく御所に勤めさせたのではないか。けれども、ずっと近くに置いておくのは御台所の政子に対してもはばかりがあるし、政子も頼朝も、義時に八重を嫁がせれば万々歳ということです。
泰時の母親はいくつかの史料に「阿波局」と書かれていますが、これが義時の妹の“阿波局”でないことはまず確実です。ではなぜ阿波局という名前なのでしょう。逆にいうと、義時の妹はなぜ阿波局という女房名を名乗ったのでしょう。そういうことを考えていくと、頼朝の最初の妻であり、のちに兄である義時の妻となった人(八重)の名乗っていた「阿波局」という女房名を義時の妹が継いだとすれば、非常にしっくりきます。
また、建久3(1192)年に頼朝が征夷大将軍になった直後、これも頼朝の仲介により義時は新たに妻を迎えます。当時の東国の武士は頼朝たちのような貴種と違って、いちどきに何人もの妻を持つようなことはありません。ですから、前の妻が亡くなっている、ないし離縁したということがなければ、新しい妻を迎えることはないのです。
そこで、1192年以前に義時は妻を亡くしていたと考えざるを得ません。となると、八重が使っていたであろうと考えられる「阿波局」という女房名は、別の人が継いだことになる。それが義時の妹であれば、非常にうまく結びつくのではない...