●北条義時の跡を継いだ北条泰時の「仁政」
―― そうすると、(承久の乱で)朝廷と幕府の関係がガラリと変わります。平家の時代やその後の源頼朝の時代にも、京都の院政と武士との綱引きのような様相が見えるところが何回かありましたが、これで完全に日本の国のかたちが変わったということになるのでしょうか。
坂井 承久の乱が一つの劇的な転換点だったことは間違いありません。この後、朝廷の側が幕府を凌駕するようになるのは明治維新まで待たなければいけないわけですから、本当に本質的な変革であったということができます。
ただ、鎌倉時代の間だけをとってみると、まだまだ、京都は文化的にも経済的にも、ずば抜けた先進地域でしたので、カチッとスイッチが入って、西国に対して東国が優位になったとまでは言えないというところです。ここは、徐々に浸透していくという歴史の流れを理解しなければいけないと思います。そのためにはある程度、平和が続かないといけないし、規範というものが作られないといけません。
北条義時は追討対象、つまり「朝敵」になったわけです。朝敵になってもなおかつ、(北条)政子の演説などいろいろのことがあり、後鳥羽方の京方を打ち破って変革を成し遂げた、歴史的な人物だったわけです。そのストレスなのかどうか分かりませんが、承久の乱の3年後に亡くなってしまいます 。その跡を継いだのが、ちょっといろいろありましたが、北条泰時 です。
泰時は六波羅探題としての経験 をもとに、鎌倉に戻ってきて仁政(徳のある政治) を行っていくようになります。義時とは違い、泰時の場合は兄弟の中でもライバルになる人たちがいました。そのため、泰時はあえて自分だけが特別に図抜けた権力を握ろうとはしませんでした。むしろ、いろいろな人に配慮して、合意を得て、事柄を進めていく方向性を模索するような時代をつくっていきます。
●評定衆による合議と「御成敗式目」の制定
坂井 (当時は)まだ三寅も幼く、元服は9歳ぐらいでするものの、まだまだ独立して将軍権力を行使することはできません。そこで「評定衆」という有力御家人たちが集まって評議をする。しかも、そのときの発言は「くじ」で選び、上下関係を作らないようにして評議をするというようなことを決め、合議制によって話を進めていく。合議であるがゆえに、その結論には「意味」も「力」もあるという...