●朝廷・幕府間のねじれと、島津久光による事態の収拾
今回は、薩長連合がどのように成立したのか、お話ししたいと思います。
前回お話しした安政期の政局によって、京都と江戸、要するに朝廷と幕府が、非常にねじれた関係になったわけです。天皇は、あくまでも攘夷を叡慮としていました。一方で幕府は、外国と条約を結んでいくことは不可避だと考えていました。条約を結んだ後、当時へんぴな場所であった横浜が日々発展して、急速に貿易港として展開していく。これを見ると、もはや後戻りができないというわけです。
しかし、こういったねじれが国内で生じている状況では、外国につけ込まれる可能性があるわけです。そこで、危機意識を持った人々が、いろいろな形でこのねじれを解消しようと考えます。その中で乗り出してきたのが、島津斉彬の弟である島津久光でした。斉彬は、開国が当然だという立場を取っていましたが、久光もまた、開国を前提に事態を収拾しようとしたのです。久光は、天皇と幕府が和解するためには、兄である斉彬が与した一橋派を復権させる必要があると考えました。そこで久光は、卒兵上京を行い、勅使の大原重徳を擁して、幕府に改革を求めます。
●一橋派の復権と一橋派による幕政改革
久光のこの行動の結果、それまで失脚していた一橋派が、再び表舞台に出てきます。例えば松平慶永は、隠居して「松平春嶽」と名乗っていましたが、政事総裁職という、実質において幕政の一番中心に位置する立場に就きます。それから、将軍である徳川家茂はまだ10代の半ばと非常に若かったので、家茂を補佐する立場として、一橋慶喜が将軍後見職に就きました。さらには、京都の守護はそれまで実質的に彦根藩井伊家が担っていたわけですが、それに代わって会津藩主・松平容保を京都守護職に任命します。
松平慶永や松平容保は、徳川を名乗らないものの、家門と呼ばれる、徳川家の子孫の筆頭に属する人物です。また一橋慶喜は、御三卿に当たります。それまでは、御三卿あるいは家門大名が幕政の中枢を担当することは、絶対にありませんでした。
政事総裁職になった松平慶永は、思い切った改革をいくつか行いますが、その中でも画期的だったのが、参勤交代を緩和したことです。それまでは1年置きだった参勤交代を、3年置きに変えました。これは、実質的には廃止といってもいいような措置だったわけ...