●明治初期の郡県制と封建制の併存~中央集権化への障壁~
今回は、廃藩置県についてお話ししたいと思います。
徳川幕府が崩壊し、江戸が東京に改められて、天皇は東京にうつるわけです。政府の中枢はそういう形で固められていきます。しかし逆に、地方の状況は非常に複雑になっていました。
この当時の地方は、府・藩・県に分けられていました。まず、かつての三都である東京・京都・大坂は、府に位置付けられました。大阪府と京都府は今でも府として残っています。東京は、昭和の初めに、東京府と東京市を一体化して、東京都になります。次に、かつての徳川家の直轄地である天領、それから旗本たちが持っていた土地は、県にまとめられます。こういった府や県には、東京から長官が派遣されて、政府が直接に統治するいわゆる直轄府県が成立するわけです。
しかしながら、かつての大名領は、藩という形を取るため、藩は引き続き大名とその家臣たちが治めていました。これはつまり、中央から長官が派遣される郡県制と、地元の有力者が統治を委託される封建制が、併存していたことを意味します。封建・郡県とは、中国の古代の政治体制を指す言葉です。こういったように、集権化が推進される一方で、大名の権限が依然として強く残っていました。こういった状況を改善しない限り、天皇の下に権力を集中することができないのです。
●藩の段階的な解体~版籍奉還と各藩への改革要求~
そこで、この府・藩・県を一体化して、政府が全国津々浦々に政令を浸透させるためには、藩の廃止が絶対に必要だったのです。しかし、藩というと、これは旧大名家つまり200年以上の主従関係に基づく強固な組織でした。それだけでなく、軍隊まで持っていますから、それを簡単に解体するのは非常に難しい。したがって、段階的な解体が図られるのです。
どういう形を取ったかというと、まず版籍奉還という措置です。これは、日本の君主は天皇であり、全ての日本人あるいは全ての日本領土は天皇の下に属する。これを大名たちが私することはおかしいという論理に基づいて、土地と人民を天皇に大名たちが返上するわけです。その代わり、かつての大名は、知藩事という形で地方長官に位置付けられ、藩士たちは、知事の下で執務を執るお役人になりました。こうして、大名およびその家臣は、天皇の臣下という形に位置付けられることになったのです。
その上で、いろいろな改革を各藩に命令していきます。まず当時の各藩の状況を説明すると、大概の大名家は、大阪の商人から多額の借入をしていました。また、多くの藩札を発行していました。こういったように、かなり急場しのぎ的な形で、なんとか財政を維持していたわけです。そこに新政府が、藩財政を再建するめどを立てるようにと指令を出します。具体的には、例えばこれ以上商人からお金を借りてはいけない、それから藩札を早急に回収するように、そういった命令を出したのです。
大名たちにとって政府のこの指令は、経済の血液を絶たれることを意味していました。そうすると、藩士たちの人数や家禄を削らざるを得ません。しかし、これは非常に難しいことでした。中には、もはや藩政を維持できないということで、自主的に藩を政府に返還するというケースも徐々に出てくるわけです。
しかしながら、ある程度改革がうまくいった藩の中には、政府が示した指針を先取りしたところもありました。今まで薩長に遅れをとった分、今度はその先を行こうという形で、非常に積極的な改革を断行する藩が出てきます。その筆頭が、高知です。あるいは、熊本、彦根、福井、米沢といった、鳥羽伏見の戦いの時に薩長に遅れをとった藩です。あるいは、奥羽越列藩同盟に加わった米沢藩などが、汚名返上のような形で、非常に急進的な改革を遂げていくのです。
●急進的な中央集権化・近代国家化に対する抵抗
このような状況の中で政府の中央は、かつての幕府の天領だけでは、なかなか近代国家を作る財政の基盤を確立できません。しかしながら、全国の大部分はかつての大名領、要するに藩領になっています。そこで、限定的なところから徴税をするしかなく、直轄府県に対する徴税を強化するわけです。
天領は、大名領に比べるともともと年貢率が低かったのですが、そういったところから必要な経費を取ろうとしました。すると、その結果、非常に過重な徴税になってしまい、あちこちで大規模な一揆が起こってきます。例えば、飛騨高山や九州の日田など、そういったところで非常に大きな一揆が頻発します。
また、藩の軍事力を抑制する、つまり常備軍の整理を各藩に要請します。しかし、例えば山口藩(以前の長州藩)は、幕府との戦争あるいは戊辰戦争の中心の兵力になったのは、もともと毛利家の譜代ではない、部屋住みあるい...