●「武者の世の扉を開いた」源頼朝と平清盛の違い
―― ここまでいろいろな話が出ました。一つはいわゆる将軍の形が変わっていくこと。将軍が源頼朝から源頼家、源実朝という貴種の源氏三代続いたものが変質していって、そこで東国武士による政権になっていくという形です。
もう一つは前回お話しいただきましたが、御家人の中でのつぶし合いや粛清があり、最終的には北条氏がトップになっていくということです。
さらに「承久の乱」が起こったことにより、京都と東国の関係が逆転していくということ。それらの3つが、この間に起きたことになります。それらに対する歴史的な意味づけといいましょうか、何がどう変わって、どうなったのかというところをどのように見ておられますか。
坂井 貴種の時代、要するに源氏三代の時代の幕府で、頼朝によって武家の力がかなり大きなものになりました。だから、私は(頼朝が)「武者の世の扉を開いた一人だ」と考えております。平清盛もそうですが、清盛がなし得なかったことを頼朝は幕府という組織をつくることによって始めたのです。
―― 清盛の場合は、朝廷の組織に乗っかろうとしたわけですね。
坂井 そうですね。京都にいたことが一つのポイントです。それに対して、頼朝は伊豆に流されていったところが出発点で、父祖伝来、父親なども関わりのあった鎌倉を拠点にしました。最初の頃は、東国武士たちに従わざるを得ない事情もあって鎌倉を拠点に据えたのですが、そのことによって清盛とは違う独自の組織を東国につくるという扉を開いたのです。
●貴種の幕府から東国武士による自立した組織へ
坂井 しかし、頼朝とその子どもたちは、東国で生まれ育った武士たちとは身分が違います。当時の身分制社会では、身分の上下が決定的な要素になります。現代の自由平等な社会では、そういうことはあまりピンとこないのですが、当時の人たちにとって秩序の根幹に身分の違いがあります。
そういうことなので、頼朝がつくった、「頼朝とその子どもたちが主君である」という幕府は「貴種の幕府」です。武家の時代は開いたものの、まだ東国武士たち自身の自立した組織にはなりきれていないのです。
では、誰がそれを東国武士たちによる自立した政権に変えていくのかというところに、貴種ではなく、その下の御家人たちの主導権争いが抗争という形で出てくるのです。貴種が主人で、御家人たちが従者。従者の中のナンバー1は誰かという争いが、北条氏や比企氏、畠山氏、和田氏などの間で起こります。北条政子の力が非常に大きかったため、政子を擁している北条氏が、さらに慎重で聡明だった北条義時の活躍により最終的な勝利者になります。
―― ということは、鎌倉殿と御家人の間に主従関係はあるけれども、御家人の中のパワーバランスが確定していなかったということになりますか。
坂井 そうですね。もともとは並立でもありますし、その中で北条氏の力は…。
―― 小さいほうですか。
坂井 そうです。小さいほうだったのですが、政子を通じて大きくなっていったわけですね。そうなると、もともと大きかった武士団からすればどうしても面白くない。そのため、ライバル関係となり、ぶつかってしまいます。
●源実朝の死によって突入した尼将軍の時代
坂井 北条時政は特にそうで、従来の伝統的な大きな武士団よりも自分が上に行こうと考えました。義時も表立ってはいいませんが、おそらく心の中で考えていたことを実行に移していったということです。和田合戦では運も味方したというか、いかに早く実朝を手に入れるかに集中した点で作戦勝ちになりました。
ということで、横並びの中でも上下ではなく大小があったのですが、その中で小さいほうだった北条氏が上に行く。逆に大きいほうだった御家人たちがつぶされたり、小さくさせられたりということが貴種の幕府の中でまず起こってきます。
ところが、実朝が殺されたことによって、貴種の幕府ではなくなってしまいます。そこから承久の乱まで2年ほどありますが、その間に東国武士による自立した幕府の助走が東国で始まります。それが尼将軍の時代です。
彼らはそれを自分たちで一生懸命やっていますが、後鳥羽院からすれば予想だにしないけしからんことでした。そのために彼らは朝敵にされてしまいます。
●承久の乱は賊軍が官軍に勝った唯一の戦い
坂井 普通、朝敵にされたら、それで終わりです。よく「承久の乱は賊軍(朝敵)が官軍に勝った唯一の戦いである」と評価されますが、彼らも本当にびっくりしたと思いますし、これでもう終わりだと感じたはずです。
義時が北条氏得宗家の始祖であるとしている『吾妻鏡』ですら、義時がいかに恐れおののいていたかということを記述していますから、本当に追い詰められていた...