●北条氏は伊豆に本拠地を持つ中規模程度の武士団だった
―― 皆さま、こんにちは。本日は坂井孝一先生に鎌倉時代の執権北条氏についての講義をいただきたいと思います。先生、どうぞよろしくお願いいたします。
坂井 よろしくお願いします。
―― 坂井先生は、『鎌倉殿と執権北条氏:義時はいかに朝廷を乗り越えたか』(NHK出版新書)『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』(PHP新書)『承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱』(中公新書)などの書籍を出していらっしゃる一方、2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代考証も務めていらっしゃいます。
早速ですが、本日はなぜ北条氏がああいう形で権力を取ることになったのかをうかがいたいと思います。もともと彼らは地方の小さい武士団ということになるわけですよね。
坂井 はい。北条氏というのは、伊豆の田方郡北条に狩野川という川が流れていますが、その中流域からやや下流に近いほうに本拠地を持つ、中規模程度の武士団でした。
―― 中規模というと、だいたいどのぐらいの規模でしょうか。
坂井 例えば相模国(現・神奈川県)には三浦氏という武士団がありました。彼らは、三浦半島から鎌倉に続くあたりの土地を支配下に収め、「三浦介(みうらのすけ)」と名乗りました。「介」という名乗りは、相模国全体で国司の次の地位だということになります。行政面でも相当な力を持っていたといわれます。
北条氏は三浦氏などに比べると、治めている土地が非常に狭く、配下にいる武士の数も少ない。一族一門を広げてみても、大した人数にはなりません。また、彼らのいた伊豆国の三島にも同じように国司がいて、その役所がありましたし、先述した「介」という国司に次ぐ地位としては狩野氏という別の一族がいました。
逆にいうと、北条氏は三浦氏のように国司に次ぐ地位にはなれず、国衙(国司の役所)における「在庁官人」に留まりました。そこに勤め、事務的なことや行政の一端を担う規模の地位の武士団だったということになります。
●流人・源頼朝の起こしたトラブルで生まれた北条氏との縁
―― かなり小さい規模の武士団だった北条氏が、なぜあの鎌倉幕府の第一権力に到達するのかというところが興味深いですね。
坂井 そうですね。
―― ここはそもそもどういうキッカケになるのでしょうか。
坂井 これは本当に歴史の面白さ、運命のめぐり合わせといった問題になります。伊豆国でも今の伊東温泉のあたりを支配下に置いていたのは、平家とつながりがあり、その後ろ盾を得て勢力を持ってきた伊東氏という武士団でした。ちょうどそこへ、流罪になった源頼朝が流されてきたのです。
頼朝は皆さんご存じのように、普通の東国武士などとはかなり格の違う、当時の言葉でいいますと「貴種」(高貴な家柄に生まれた人)というランクに位置している武士でした。
平治の乱に敗れて伊東氏のもとへ流されてきた源氏の頼朝は当時14歳でしたが、伊東氏と北条氏は姻戚関係にあったのです。
―― なるほど。
坂井 伊東祐親(すけちか)の娘が北条時政の妻ですから、祐親からいえば時政は娘婿、時政からいえば祐親が義理の父にあたる関係にありました。
頼朝は伊東氏のもとで15~6年、14歳から30歳ぐらいまでを流人として生活します。その間に少しトラブルを起こして伊東氏から追放される形になりますが、その面倒を引き受けたのが北条氏でした。
―― トラブルというのは、女性絡みのトラブルですか。
坂井 そうです。頼朝はその後、挙兵が成功して幕府を開いてからも、さまざまな女性関係のトラブルを起こします。これは個人的な資質なのか、それとも京都で生まれ育ち貴族社会に通じていたからなのかは分かりません。当時の貴族の間では女性関係は割にルーズなのが当たり前でしたが、その感覚で東国に暮らすとやはりトラブルになってしまうわけです。
ともあれ時政が祐親の娘婿なので、頼朝を受け入れます。しかし、そこでも頼朝は女性問題を起こします。それが、時政の長女・政子との勝手な婚姻でした。
●北条政子との結婚から「以仁王の令旨」による挙兵へ
坂井 ただ、時政は伊東氏とは違って、平家とほとんどつながりのない中規模程度の武士です。先ほど国衙の在庁官人といったように、行政には多少関わっていました。伊豆国の知行国主が源頼政で、頼政の息子がその下の国司になっている関係から、(北条氏と)源氏はもともとつながりがあったわけです。
したがって、祐親のように怒ったりはせず、最初は驚いたものの政子と頼朝の結婚を受け入れます。なんといっても、これが運命の始まりということになります。
―― はい。そうして、...