●源頼朝は描いていた死後の構想
―― もう一面、母として北条政子を見た場合、かなり厳しかったといえるでしょうか。源頼朝との間には息子が二人、源頼家と源実朝が生まれますが、二人とも非業の死を遂げることになります。
このあたりは受け入れ方次第かと思いますが、政子がどのようにしてそういう局面に臨んでいくのか、ということについてはいかがでしょうか。
坂井 頼朝が遺言を残さず急死してしまったことが、一つの大きなポイントになりますね。
最晩年の頼朝は、自分が死んだ後の方向性をある程度構想していました。例えば、大姫を後鳥羽天皇のお后にしようと画策したりします。これは、藤原氏などが行っていた「外戚」になることを目指しているのですが、貴種である頼朝はそういう考え方をします。東国生まれ・東国育ちの東国武士たちとは、根本的に考え方の違うところがあります。
また、頼朝は普通の権力者と同じように、自分の地位は血筋で継がせようということも強烈に考えていたと思います。そこで頼家を嫡子として御家人たちに認めさせるための手をいくつも打っています。さらに、その次の代は自分の孫(頼家の子ども)に継がせるということまで、おそらく想定していただろうと考えられます。
そのためには、頼家が子どもをつくらないといけない。頼朝が亡くなった時、頼家は18歳ですが、当時の権力者の息子であれば、その少し前の15~17歳ぐらいになると結婚して子づくりをするのは当たり前でした。そこで頼朝が妻を選びます。自由恋愛の時代ではありませんから、当然、頼朝が選ぶ形になります。
●源頼家には二人の妻と二人の子がいた
坂井 最初に選んだのは、頼家の「乳母夫(後見役)」に指名していた比企能員(よしかず)の娘でした。これはもう本当に身内で固めたような形です。
ところが、それ以外に加茂重長(かもしげなが)の娘も頼家の妻に選んでいました。この娘は、頼朝の叔父にあたり豪傑として名高い源為朝の孫娘でした。つまり、源氏の一族です。また、父親は源平合戦の最初の頃、激しい戦だった「墨俣(すのまた)の合戦」で戦死してしまっていました。その後は一族の中で育てられてきたらしいですが、頼朝が鎌倉から京に上る中間地点の近くに本拠を持つ武士団の娘でもありました。
そういうわけで、家系からいっても、鎌倉と京を結ぶ交通路という利点からい...