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2代将軍・源頼家の2人の妻と息子が巻き起こす争乱と悲運

鎌倉殿と北条氏(6)源頼家と母・北条政子の関係と悲運

坂井孝一
創価大学文学部教授
情報・テキスト
『吾妻鏡』によると、北条政子は息子である2代将軍・源頼家に対して冷酷な母だったとされるが、はたしてそうなのか。また近年、「鎌倉殿の13人」による合議制は頼家の将軍権力を補佐する制度だと考えられるようになったことなどもあり、『吾妻鏡』という史料に対するこれまでの見方を見直す必要がある。今回はその点も踏まえて、鎌倉幕府誕生の経緯を追いながら、源頼朝の思いとともに頼家と政子の実像について考えていく。(全9話中第6話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:12:19
収録日:2021/11/08
追加日:2022/02/13
タグ:
≪全文≫

●源頼朝は描いていた死後の構想


―― もう一面、母として北条政子を見た場合、かなり厳しかったといえるでしょうか。源頼朝との間には息子が二人、源頼家と源実朝が生まれますが、二人とも非業の死を遂げることになります。

 このあたりは受け入れ方次第かと思いますが、政子がどのようにしてそういう局面に臨んでいくのか、ということについてはいかがでしょうか。

坂井 頼朝が遺言を残さず急死してしまったことが、一つの大きなポイントになりますね。

 最晩年の頼朝は、自分が死んだ後の方向性をある程度構想していました。例えば、大姫を後鳥羽天皇のお后にしようと画策したりします。これは、藤原氏などが行っていた「外戚」になることを目指しているのですが、貴種である頼朝はそういう考え方をします。東国生まれ・東国育ちの東国武士たちとは、根本的に考え方の違うところがあります。

 また、頼朝は普通の権力者と同じように、自分の地位は血筋で継がせようということも強烈に考えていたと思います。そこで頼家を嫡子として御家人たちに認めさせるための手をいくつも打っています。さらに、その次の代は自分の孫(頼家の子ども)に継がせるということまで、おそらく想定していただろうと考えられます。

 そのためには、頼家が子どもをつくらないといけない。頼朝が亡くなった時、頼家は18歳ですが、当時の権力者の息子であれば、その少し前の15~17歳ぐらいになると結婚して子づくりをするのは当たり前でした。そこで頼朝が妻を選びます。自由恋愛の時代ではありませんから、当然、頼朝が選ぶ形になります。


●源頼家には二人の妻と二人の子がいた


坂井 最初に選んだのは、頼家の「乳母夫(後見役)」に指名していた比企能員(よしかず)の娘でした。これはもう本当に身内で固めたような形です。

 ところが、それ以外に加茂重長(かもしげなが)の娘も頼家の妻に選んでいました。この娘は、頼朝の叔父にあたり豪傑として名高い源為朝の孫娘でした。つまり、源氏の一族です。また、父親は源平合戦の最初の頃、激しい戦だった「墨俣(すのまた)の合戦」で戦死してしまっていました。その後は一族の中で育てられてきたらしいですが、頼朝が鎌倉から京に上る中間地点の近くに本拠を持つ武士団の娘でもありました。

 そういうわけで、家系からいっても、鎌倉と京を結ぶ交通路という利点からいっても、加茂重長の娘を頼家の正妻にしようというのが頼朝の考えだったと思われます。当時の正妻(御台所)は家の格で決まります。ですから、比企能員のような東国武士の娘ではなく、加茂重長の娘のほうを頼家の正妻として、頼朝は想定していたのでしょう。

 そのため、比企能員の娘は「若狭局」という名で頼家の側室になりました。彼女の産んだ息子は6歳(まで生きる一幡〈いちまん〉です)。そして、加茂重長の娘が産んだ息子が、公暁(こうぎょう)です。後に実朝を……。

―― 暗殺すると。

坂井 ええ。その公暁が4歳になる時に「比企の乱」が起こるのですが、その前に頼朝は亡くなっています。したがって、頼家は父親の構想を裏切る形になるのですが、小さい頃から後見人としてずっと自分の面倒を見てくれた比企能員の娘との間に生まれた子どもを跡継ぎにしようと考えたらしい。

 政子にしてみると、2代目の鎌倉殿である頼家は自分の息子ですが、頼家と若狭局の間に生まれた一幡が3代目になってしまうと、自分の地位や立場がだいぶ弱くなってしまう。そういうことを憂慮したとも考えられます。


●「鎌倉殿の13人」の真実と母・北条政子の真の姿


坂井 『吾妻鏡』には、政子が頼家に非常に厳しく当たったということが随所に書かれています。私は、それこそ最初に述べた『吾妻鏡』の北条氏目線による史料操作といいますか、史料改竄の極端な例だと考えています。実際の頼家はなかなか優れたところのある若者だったようで、将軍権力を掌握して政治を行っていました。

 (2022年)NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の13人というのは、頼家の政治が始まった時に、頼家から政治権力を奪って有力御家人13人が全てを決めようとしたのだと『吾妻鏡』に書いてあるとこれまで考えられてきたのですが、実はそうではありません。偉大な父親が突然亡くなってしまい、若くして2代目の鎌倉殿になった頼家を補佐するために、13人の経験豊かな有力御家人たちが集まった。そして、頼家に対していろいろな案件を取り次いだ、その制度であると近年は考えられるようになっています。

 ですから、頼家の権力を奪った13人(その中にもちろん北条も入っています)が合議制を行ったという『吾妻鏡』の記述を全て信用するわけにはいかないということです。したがって、政子が頼家に対して非常に厳しいことを言ったという話があっても、それが『吾妻...
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