●北条義時へのクーデター計画「泉親衡の乱」
坂井 和田義盛や和田氏を支持している人たちからすると、(北条)義時が逆に邪魔者になります。
―― (北条義時が)政所の、いわゆる公式のところに入ってきたがゆえに、制度上の摩擦といいますか、そういうのが生まれてきてしまったということですか。
坂井 そうですね。制度上も生まれてきますし、(和田)義盛たちからすれば、元々は伊豆の片田舎の武士だった北条氏が鎌倉に乗り込んできて、政権の一番中枢に座っていて、将軍とも一番近いところで政策の立案などをしている。これは相模国の鎌倉に近いところを本拠地にしている三浦一族や侍所別当である和田義盛から見ると、さすがに納得いかないところが出てきていたと思うのです。
相模国に対しては、先ほど国の守(国司) の話をしましたが、武蔵守や相模守は朝廷から北条氏が任命されています。義時が相模守です。したがって相模国の国務は義時が担うことになります。これも相模国に本拠地を置いている和田義盛や義盛を支持している御家人たちからすると、ちょっと不満であるというかたちになります。
こういうわけで、義時の側からしても義盛の側からしても対決せざるをえない状況が生まれるようになってきてしまったのです。
そうこうしているうちに、義時を失脚させようとする「泉親衡の乱 」が起こります。これは事前に露見してしまいました。首謀者をはじめ200名ほどの人が捕まるほど大規模な、反義時のクーデター計画でした。ただそれは、(源)実朝をどうこうするという話ではなく、義時を討つことが目的だったと『吾妻鏡』にすら明記されています。
その首謀者のなかに和田義盛の甥の(和田)胤長 という者が含まれていました。それから、いろいろ集まったなかには、一緒に名前を連ねられてしまったような人たちもいると思います。そこに義盛の息子が2人入っていたのです。彼らは首謀者ではなかったらしい。そこで、義盛は実朝に直訴して、息子を許してもらいます。
●和田一族と将軍実朝、そして義時の関係
坂井 (源)実朝と(和田)義盛はそれ以前から非常に良好な関係を築いていました。なにしろ義盛は実朝の亡き父である(源)頼朝と同い年なので、むしろ父のように慕うというところもあります。
さらに義盛の孫に(和田)朝盛 という若者がいますが、彼は実朝の主宰する和歌の会にも頻繁に顔を出していました。そのように、和田一族と将軍の実朝はかなり良好な関係にあった。それを利用して義盛は息子の赦免を直訴し、許してもらうわけです。
これで気をよくした義盛は、翌日、和田一族90名以上を率いて御所に乗り込んできます。甥の(和田)胤長も許してもらおうとするのですが、どうも胤長は首謀者の1人だったらしく、さすがに実朝も容認できなかったようです。それを容認してしまうと、たとえ(北条)義時を討つというものではあっても、大勢の武士たちが治安を乱す計画を立てた首謀者を許すことになる。そうなれば、やはり将軍としての権威、権力を損なってしまうことになります。
そこで、胤長は許せない。普通であればそのまま流罪になったりするのですが、敵対している義時にとっては、自分が命を狙われたわけなので、実朝と違って心穏やかではありません。そこに和田氏が関わっているとなると、これをきっかけに和田氏をつぶすしかないと考えてもおかしくありません。
ということで義時は、あえて胤長を後ろ手に縛り、90人以上いる和田氏の前を歩かせて、流罪に処すという挑発的な行動をとります。
これで和田氏は相当怒ります。名誉を傷つけられるわけです。合戦においてではなく、御家人であるにもかかわらず一般庶民の犯罪者と同じように扱われ、しかも自分たちの目の前を歩かされるというのは、和田一族の名誉を傷つける以外の何物でもない。許しがたい、ということになり、御所への出仕を取り止めてしまいます。実朝はちょっとつらい立場になります。
そういうことがあり、いろいろと駆け引きがあって、結局、和田義盛は義時を討つための挙兵計画を実行に移さざるを得なくなってしまいます。
ただし、先ほどの泉親衡の乱でも標的になったのは北条義時です。和田義盛が挙兵する場合もターゲットは義時です。「実朝には敵意はございません」ということを義盛がはっきりと言ったと『吾妻鏡』のなかにも書いてありますから、これまでの良好な関係を見ても、義盛が実朝を討とうとすることは考え難いわけです。
●和田義盛の挙兵…三浦一族内部の確執とは?
―― あくまで内部の戦いであるということですね。
坂井 そうですね。将軍の下の、上部の御家人の権力闘争です。これまでも梶原景時であったり、比企能員であったり、そういう権力闘争が有力御家人の間で起きた。そ...