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なぜ後鳥羽上皇は北条義時と鎌倉幕府に不満を募らせたか

源氏将軍断絶と承久の乱(10)後鳥羽上皇との対立の火種

坂井孝一
創価大学文学部教授/博士(文学)
情報・テキスト
親王将軍に代わり2歳の三寅が将軍予定者として迎え入れられる。これに異を唱えたのが摂津源氏の源頼茂だが、謀反は計画段階で漏れ、追い詰められた頼茂は大内裏に火を放つ。いたく傷つけられた後鳥羽上皇の心は、幕府への憎しみとなる。一方、集団体制の幕府内では北条義時がそれまで署名に用いていた「右京権大夫」という役職を「陸奥守」に変えた。このことが意味することとは。(全12話中第10話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:13:46
収録日:2022/07/13
追加日:2022/11/13
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≪全文≫

●次期将軍予定者「三寅」の迎え入れと源頼茂の追討


坂井 結局、親王は最終的には(鎌倉には)下さないことになります。幕府が「では、誰にするか」とおうかがいを立てると、後鳥羽上皇から「摂政や関白の子供でも、反対しない」と言われます。後鳥羽上皇としても親王は下さないけれど、朝廷と幕府が完全に敵対することは望んでいないわけです。ですから、摂政や関白の息子であれば容認するという発言をしました。

 それを三浦義村あたりが聞いて、「では」といろいろ調べたところ、(源)頼朝の血筋の遠縁で、九条道家の息子に三寅(みとら)という2歳の幼児がいます(後の藤原頼経)。それを将軍予定者として迎え入れるというふうに決定が下されます。

 ただ、その三寅が鎌倉に下っている最中に、不満を持った源頼茂という摂津源氏の有力者がいました。以仁王の乱のときに一緒に挙兵し、武力となった源頼政の子孫です。内裏を守る役目を仰せつかっている名門で、院近臣でもある人です。


 (彼は)政所の別当もやっていました。院近臣であり、源氏の名門ですから、先ほど(第7話)で言った政所の9人の別当として増員された1人が頼茂でした。

 (源)頼茂からすれば、自分は(北条)義時たちと違って源氏であるのだから、自分が将軍になってもおかしくないだろうと考えていたにもかかわらず、2歳の幼児の三寅を連れてくるのはありえないということで、謀反を企みます。

 その計画が漏れてしまいます。(源頼茂は)御家人ではありますが院近臣でもありますから、在京の武士たちが後鳥羽上皇の許可を得て、追討に向かいました。頼茂は当然抵抗します。しかも「もう勝てない」と分かった時点で、内裏に火を放ってしまうという想像しがたい暴挙に走ります。その結果、大内裏の重要な部分が燃えてしまって、歴代の宝物も焼失します。


●後鳥羽上皇の大きなコンプレックス


坂井 これは後鳥羽上皇にとっては大変大きなショックです。なぜかというと、後鳥羽上皇は平家が三種の神器を西海に持っていってしまっているときに践祚したものですから、天皇の正統性を示す三種の神器なくして位に就いたという負い目を持っている。

 さらに、平家が滅んだときに草薙剣という三種の神器のうちの一つが海の底に沈んでしまいました。その後、後鳥羽上皇は何回も何回も探させますが、ただし、壇ノ浦のあたりは海流が激しくて、見つかるわけがありません。

 このことにより、(後鳥羽上皇は)正統な天皇として欠格事項を持っているというようなコンプレックスをずっと抱いていました。有能な帝王であるにもかかわらず、そういうコンプレックスとともに生きてきた人なので、天皇の住まいの象徴である大内裏を燃やされ、宝物もたくさん焼失してしまうということは、精神的に極めて大きな打撃だったのです。

 その原因をつくったのは要するに幕府であるわけです。幕府の将軍の地位をめぐる内紛がこういうことをもたらしたわけです。ですから、(後鳥羽上皇のなかには)幕府に対する敵意が、ふつふつと沸いてくるだろうと思います。

 しかし、燃えてしまった大内裏は再建しなければいけません。もちろん(後鳥羽上皇は)再建事業に立ち上がりますが、再建事業には大増税が必要になります。これに対しては、貴族も寺社も幕府も、いろいろなところが反対するわけです。古今東西を問わず、大増税に対しては反対が起こるものです。そのため、再建事業はなかなか遅々として進まず、苛立ちを募らせていきます。

 もちろん、貴族も反対しています。寺社も反対しています。しかし、後鳥羽上皇にとって一番腹が立ったのは、やはり幕府です。「原因を作ったのは幕府でしょう。幕府が反対するのは筋違いだ」と後鳥羽上皇からすれば思うはずです。しかも、(源)実朝が生きていたときには、「閑院内裏 (かんいんだいり)」という内裏の修造をしましたが、実朝は積極的に協力したのです。その実朝が死んだ後、北条氏が牛耳るかたちになった幕府はまったく反対の行動をとっている。これはもう、敵意がマックスになってきます。

 そこで、この幕府を率いている北条義時を討つしかないというふうに、承久2(1220)年から承久3年にかけて(後鳥羽上皇は)考えるようになります。


●北条義時が「陸奥守」と名乗りを変えた深い理由


坂井 一方、幕府のほうはどうかというと、(源)実朝が殺された後、親王は来なくなり、2歳の三寅が来た。2歳ですから何もできません。ということで、北条政子が亡き将軍(実朝)の母、亡き(源)頼朝の後家ということで、実質的な四代目鎌倉殿になります。

 それは、ただ単なる亡き将軍の生母や後家だったというだけではありません。親王将軍の交渉を「女人入眼」で成立させたときに後鳥羽上皇から従三位、さらに従二位という高...
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