●第二代鎌倉殿を継承した源頼家の急病と「比企の乱」
―― 皆さま、こんにちは。本日は坂井孝一先生に「源氏将軍断絶と承久の乱」というテーマでお話をいただこうと思います。先生、どうぞよろしくお願いいたします。
坂井 よろしくお願いします。
―― 坂井先生はNHK出版から『鎌倉殿と執権北条氏』と『考証 鎌倉殿をめぐる人びと』、PHP新書から『源氏将軍断絶』、さらに中公新書から『承久の乱』ということで、まさにこの時代を入口から出口までという形でお書きになっていらっしゃいます。
本日はその中でも源氏将軍がいかに断絶してしまうのかという過程と、承久の乱を経て武士の政権がどう確立していくのかというお話をうかがえればと思います。
まずですが、第一代将軍の源頼朝が亡くなり、源頼家が第二代将軍になります。しかし、前回のシリーズ講義(「鎌倉殿と北条氏」)でうかがったように、頼家も大きな悲劇に見舞われてしまうことになります。このあたりはどのような流れになるでしょうか。
坂井 頼家は頼朝が急死したあと、若くして二代鎌倉殿になったので、最初は大変苦労します。頼朝期以来の有力御家人がたくさんいますから、それらとの権力闘争、そして鎌倉殿としての政治。そうしたところにいろいろと対立関係があり、また、お互いの支え合いもあります。最初のうちは相当混乱しますが、徐々に頼家時代の政策が遂行されるようになります。
その中で、頼家の乳母夫(めのと)、つまり後見人になっていた比企氏、その当主は比企能員ですが、彼の権力が上がってきます。
本来であれば、北条氏の勢力はそのまま削減されていくはずだったのですが、ここで思わぬことが起こります。頼家が突然、重い病気に罹ってしまうのです。これは歴史の不思議です。別に毒を盛られたわけではないのですが、突然病に倒れ、しかも病状はどんどん悪化していきます。
そうなると、次の鎌倉殿を誰にするかという話になります。頼家には子どもが何人かいましたが、最初に生まれているのが比企能員の娘を母親にしている一幡。2番目の男の子の母は賀茂重長の娘という人で、源氏の血を引いています。この子はのちの公暁(こうぎょう)ですが、当時は善哉(ぜんざい)と呼ばれていました。
このどちらかが後継ぎとしてふさわしいわけですが、まだ6歳と4歳です。すぐに鎌倉殿として力を発揮するような状況ではありません。他の可能性としては、北条氏が乳母夫を務めていた(頼朝の子である)千幡。千幡(のちの源実朝)は12歳で、いずれにせよ、子どもでした。
ここで、慈円が書き残した歴史書である『愚管抄』の記述をもとに考えていきますと、おそらくは当時勢力を持っていた比企氏が主導して、比企の娘が産んだ一幡のほうに多くの権限が譲られるという決定がなされたようです。
これは北条氏にとっては非常に都合の悪いことであり、どこかで逆転しなければいけません。そこで賭けに出たのが北条時政でした。相続がうまくいって油断した能員を自邸に招いて、そこでだまし討ちにします。能員は比企氏の当主であり、一幡はまだ6歳の若さ。ですから、能員が討たれてしまうと比企一族にとっては大きな痛手です。しかも頼家は病床にありますから、どうしようもありません。
この時、即座に北条政子の了解を得たと思いますが、一幡のいる「小御所」という比企氏の本拠を攻めて、一族を壊滅させます。『愚管抄』によると、一幡は脱出できたのですが、それを3カ月後に北条義時が見つけ出して殺させます。こうして、ほぼ一網打尽にしてしまうわけです。もう大逆転です。
これは歴史学上、普通「比企の乱」と呼ばれていますが、今、私の申し上げたことが実際に行われたとすれば、それは明らかに“北条の乱”と呼んだほうがいいのではないかと。
―― 逆転をするということで、「乱」を仕掛けたのは北条だということですね。
坂井 そうです。乱を仕掛けたのは北条のほうなのです。
●源頼家の弟・源実朝が次の鎌倉殿へ
坂井 続いて、では次の鎌倉殿を誰にするかという話です。頼家はもう死ぬだろうと思っていますので、北条氏が乳母夫を務めている千幡(頼家の弟。のちの源実朝)を三代鎌倉殿にする。そして、それを朝廷に認めてもらう。そのために使者を出します。
朝廷と(鎌倉で)は当時タイムラグが5日から1週間ほどありますが、そういう申請が(鎌倉から)来たから、「ああ、そうなのか」「では、千幡を三代鎌倉殿という形で継承させよう。同時に征夷大将軍に任命しよう」ということになります。
鎌倉殿の継承と征夷大将軍の任官が同時に行われたのは、この実朝の時からです。頼朝が最初から将軍だったわけではないのは明らかですが、頼家も鎌倉殿を継いだ時にはまだ将...