●鎌倉殿に従う武士、朝廷に従う武士、両属の武士
―― (後鳥羽上皇と北条義時の)対立の種がいよいよ火を噴くのが承久の乱ということになってきます。承久の乱の動きを考えるためには、鎌倉殿に従う武士たちと、朝廷に従う武士の存在を考えなければいけないと思うのですが、このあたりはどういう仕組みになっていたのでしょうか。
坂井 武士たちは、関東を中心に御家人(鎌倉時代には、「鎌倉殿(=将軍)直属の家臣」の意)になっていますが、西国のほうにも武士はいて、御家人でない武士もかなりいました。さらに東国出身の御家人であっても、京都に行って院に仕える、両属関係にあるような武士も相当いました。
それから西国守護。守護というのは有力御家人になりますが、西国守護の任地は西国なので後鳥羽の指揮系統に入る武士たちも、相当数いました。逆に言えば、そのぐらい西のほうでは、治天の君である後鳥羽上皇 が存在感を示していたということです。
したがって、幕府の武力や軍事力といっても、やはり東日本が中心です。そこがまず大前提として重要になってきます。
そこで、簡単に経緯を説明しますと、まず(北条)義時を排除しなければいけない。そして自分の意向を実現するような西国の御家人を、奉行として鎌倉に送り込む。これによって幕府の軍事力を乗っ取ろうとしたのが後鳥羽上皇の真意だと、私は考えています。
軍事組織を1(いち)から作るというのは大変です。さらに、(源)頼朝の挙兵からはすでに40年以上経っているので、そのなかで積み上げられてきた組織である幕府をつぶし、倒すことによって、多くの東国御家人たちは野に放たれてしまうことになります。彼らは武力を持っているわけで、治安が乱れることは、火を見るよりも明らかです。
●後鳥羽上皇に幕府を倒すつもりはなかった?
坂井 それをするほど後鳥羽上皇は愚かではないと思います。むしろ、親王将軍を送って幕府を自分の支配下に置こうとしたのと同じように、「トップにいる北条義時を別人にすげ替えることによって、軍事組織はそのまま利用しよう。そのほうが、デメリットが少なく、メリットが大きい」と考えたのではないかと、私は思っています。
―― これは、まさに親王を将軍として下そうという発想の延長線上といえば延長線上です。いかに自分の影響下に幕府を置くかという戦略の一環ということになるわけですね。
坂井 はい。もちろん、自分の影響下に置くときに、(源)実朝がいて親王将軍がいる場合では、鎌倉殿と御家人たちとの主従関係やそれまでの幕府の制度が本質的に大きく変わることはありません。しかし、もう実朝もいない、もちろん親王将軍も行っていない。2歳の三寅がいるだけです。
北条氏を排除して、そこに自分の意向を汲んでいる御家人を入れたとしても、鎌倉殿と御家人たちの主従関係が今までのかたちとは違ってきてしまいます。ですから、実朝期までの確固たる幕府のような軍事組織ではなくなってしまうかもしれない。軍事力はあるものの、組織としての一体性は崩れていってしまうかもしれない。
そういうことを考えて、「それまでの幕府ではなくなる」という意味で、「幕府を倒す」という言い方ができないわけではありません。しかし、それは急に起こることではない。幕府をつぶすのではなく、徐々にその体制が変わっていったら。(たとえば)直接、後鳥羽上皇が鎌倉に命じるようなことが起こってきたときに、どうなるのか。現実にはそうならなかったので、どのようなかたちが生まれるかについては想像でしかありません。よく分からないことばかりです。
少なくともそれまでの(源)頼朝や頼家、実朝のときの幕府でないものに変わってしまうことは明らかなのですが、解体させてしまうことはないと、私は確信しています。
―― あくまで(北条)義時の追討、北条氏の追討であるということなのですね。
坂井 そうですね。
●ありえない3上皇配流と皇室への介入
―― このあたりは本当に有名なお話になってきますが、北条政子が演説をし、御家人たちが一致団結して京都へ上っていき、朝廷側を打ち破るということになってくるわけです。
ここでまた、幕府と朝廷の関係が大きく変わってくると思うのですが、この事件を境に、それまでの関係とその後ではどう変わっていくのでしょうか。
坂井 京方と鎌倉方という言い方をしますが、武力で京方(後鳥羽方)を倒し、さらに後鳥羽上皇及び順徳上皇に加え、自らの望みにより土御門上皇も流されることになります。3上皇を配流するという考えられない事態が起きます 。
―― 日本の歴史で、家臣というか皇室の人でない者が皇室の人を流すというのは、ありえない話ですよね。
坂井 そうですね。保元の乱のときには確かに崇徳上皇が流されま...