●家臣たちは「何事も信長申す次第」に縛られたのか
前回では、織田信長は同時代の諸勢力を排除するのではなく、共存の上で国内を統合していく天下人であったことを見てきました。それでは、信長を支える家臣はどうあったのか。今回は、そこを見ていきたいと思います。
本能寺の変の前、信長の勢力圏は、この図にあるように、東は関東から、西は中国地方に及ぶようになってきます。さらに、ちょっと押さえておいていただきたいのは、今も申し上げたように直接的に織田家が治める地域は関東から中国地方ですけれども、この頃、東日本で信長と敵対する勢力は、越後の上杉氏と、それに協力する勢力のみになっていることです。天正十(1582)年になりますと、そのように信長の下で国内がまとまっていく状況ができてきます。
では、そのなかで、織田の勢力圏はどのように運営されていたのか。これが信長と家臣との問題になってくると思います。一般的にどのように言われているかというと、信長は各地に自分の信頼する重臣を派遣して、その地域の平定と支配を進めていったということです。
この在り方自体は、他の戦国大名においても見られることですので、特段注目するべきことではありません。信長について押さえておいていただきたいのは、彼が自分で全部取り仕切っていた、つまり彼の命じたことを任された家臣たちは、忠実に行うことが求められる存在だと言われていたところです。
これが本当にそうなのかどうかが問題です。越前国掟」という史料を見ると、「何事においても、信長申す次第に覚悟肝要に候」とあり、要するに「何事についても、信長が言った次第、行うべきである」と書かれています。ここからすれば、家臣たちは信長に言われた通りに活動していかなければならないということになってきます。
●戦国時代の統治者には求められていた「諫言」の受容
しかし一方で、もう一つ注目していただきたいのは、「無理難題であると思いながらも、巧みに応じるのはけしからん」と信長が言っていることです。どういうことかというと、「これは無理であるし、望ましくないのだけれども、信長様に言われたのだから、その通りにしなければならない」といった態度は好ましくない。そういったことがあったときには、信長に意見するように、ということです。
これはどういうことなのか、なぜそこに注目するのかというと、実はこの在り方が、甲斐の武田信玄らにも見られることだからです。例えば武田信玄は、「分国法」といわれる法律「甲州法度次第」のなかで、「自分の行いが正しくない場合、それについて立場を問わずに意見をするように」ということをいっています。つまり、自分の行いが正しくないとき、それについて意見をされたら応じるというスタンスが、戦国時代の統治者には求められていたわけです。
●織田信長は宿老・佐久間信盛の諫言に対してどんな行動を取ったのか
信長にはそれがなかったのかというと、書かれている史料から見る限り、信長にもあったことが分かってきます。
けれども、それはあくまでも史料のなかでいっているだけではないかと考えられる方もいらっしゃるかもしれません。そこで実例を見ていくと、宿老に佐久間信盛という存在がいるのですが、この人が信長の決めたことに対して、「これは考え直された方がいい」と諫言を申し上げた話が出てきます。
私たちからすると、佐久間信盛などは後に追放されていくので、さほど有能な存在ではないので、そのようなことを言っても、信長は「口うるさい」と感じて排除したのではないかというイメージがあるかもしれません。ところが、書かれている内容を見ると、佐久間が強く説得する。それに対して信長が、佐久間の「こうあるべき。考え直してください」という諫言を受け入れたという記述が出てきます。ということは、信長が、まったく自分の意見を押し付けるばかりで、他人の意見を聞かない存在であったのかということについて、疑問が出てくるわけです。
●家臣たちに求めたのは織田政権への忠誠
従来、信長というのは、自分が物事を決めていく。さらに、自分の決めたことに従って、家臣に活動を行わせていく人だと言われてきました。ここで実際に家臣たちはそうだったのかということを見ていきましょう。
例えば柴田勝家、羽柴秀吉、明智光秀(織田信長の下では「惟任光秀」と名乗っていた)などは、信長によって地域支配を任された武将です。彼らに地域支配を任せるにあたって、最初信長は順調に軌道に乗るまで関わりを持ちます。しかし、その後はどうなってくるかというと、権益の保証や徴税、争いの解決、法の制定、さらには軍隊の整備などが彼らの下で行われていることが分かっています。
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