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織田信長を支えた母衣衆に見る戦国のダンディズム

信長軍団の戦い方(1)母衣衆と織田信長の残忍性

中村彰彦
作家
情報・テキスト
織田信長
戦国の武将として多くの人がその筆頭に織田信長を挙げるのではないだろうか。天下布武を掲げ、時にはあまりに非情な戦略をとったことでも有名な信長。彼を支えた母衣衆の特徴、そして越前朝倉氏を滅ぼした戦い、伊勢長島の一向一揆などの殲滅戦を解説する。(全3話中第1話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:12:26
収録日:2019/11/06
追加日:2020/02/25
キーワード:
≪全文≫

●鉄砲と柵木がもたらした一本勝ち


―― 皆様、こんにちは。本日は中村彰彦先生に、「信長軍団の戦い方」というテーマでお話を伺いたいと思っております。先生、どうぞよろしくお願いします。

中村 よろしくお願いします。

―― 信長というと、いろいろな戦いにおいて革命を起こしたイメージが非常に強いのですが、具体的にはどのような戦い方をしてきた男なのでしょうか。

中村 中学、高校で習うのは、長篠の戦いにおける鉄砲3000挺ですね。「3段撃ちをした」「いや、そうではない」とか、いろいろ言われています。いずれにしても鉄砲を3000挺持っていただけで大変なことなのです。

 ここでは、鉄砲をどうやって使ったかを少し深く考えていきましょう。あの時は出動を命じた武将たち及び家来たちに、柵木(さくぼく)を1本、必ず持ってこいと伝えています。

―― 柵木、つまり木ですね。

中村 また、それを結びつける縄を1把持ってこいと指示したことが『信長公記』という史料に書かれています。1本1本持ち寄ったのを柵木にして、横木を渡して、それを全部縄で結わえ付ける。それで2段、あるいはところによっては3段にして、しかも鍵の手に、兵隊が出入りできるような出入口もつくった。

 長篠の合戦の特徴は鉄砲だとひと言で言っては、見落としてしまうものがあります。信長は、柵木をずらっと並べて、敵の騎馬軍団が入れない形にして、1騎1騎を狙い撃ちにしていく手法を考えた。要するに、鉄砲3000挺プラス長大で堅牢な木柵、馬防柵という言い方もしますが、この2つがセットになったときに、長篠の合戦の一本勝ちが約束されたわけですね。

 ではなぜ、信長は馬防柵をつくるという発想をしたのかを調べていくと、実はこれは昔から信長がやっていた発想だったことに気づきます。

 まだ織田家が今の愛知県を統一する前、岩倉城にも織田家があって、清洲の信長と対立していました。その岩倉城を信長が攻め寄せた際、岩倉城は小さな城ですから、四面を囲める。城と囲いを漢字でなぞると、「回」という字に似た形になりますが、つまり、四辺形の柵で囲ってしまうわけですね。そして、城の中がひもじくなって、馬防柵から抜け出して、食糧を探しにいこうとか、別のところへ逃げようとする者がいたら、鉄砲で待ち伏せしているので、全部射殺する。そういうふうにして、信長は岩倉織田氏を降伏に追い込んでいます。

 伊勢の大河内城という大きな城を取った時も、大きな木柵を使って回の字型で囲ってしまいますので、つまり、この手法によってギブアップに追い込んでいるのです。


●風船玉!? 戦国武将たちのダンディズム


中村 戦国のダンディズムが現れてくるのは、大河内城を包囲した時です。この頃、漢字の使い方として、馬防柵の「柵」という字を1尺、2尺の「尺」という字を使い「さく」と読ませるのですね。そして、柵の近くを「限」(きわ)と言いますが、馬防柵の周りを回って敵を監視する役を「尺限(さくきわ)廻番衆」と呼びました。廻番というのは、番兵が廻ることですね。この尺限廻番衆が逃げてきた者をみんな撃ってしまうのです。

 尺限廻番衆は平原会戦の時には、別の陣地への伝令役を務めます。これが信長のお気に入りの近習部隊で、気が利いて、勇気があって、馬術が得意で、頭がいい。信長は面倒くさいからと「そうであるか」を「であるか」というように、言葉を勝手に略す癖があるため、それをしっかりと聞き分けて、命令を与える先に伝えなくてはいけません。戦場でこういう役を務めるのは、母衣(ほろ)を着用しているので「母衣武者」と呼びます。母衣も鉄砲、ニュールンベルグの南蛮鎧と同じで、ヨーロッパ人が日本に持ち込んだ習慣です。カラーを付けて、マントを羽織る。馬に乗ったりするとヒラッと翻って、しかも、外は黒いのに、裏側は赤だったりと色合いがおしゃれだった。当時の日本人にとってはマントがかっこよく見えたので、大変気に入られて、はやったのです。他にも、クリスチャンでもないのに十字架がかっこいいからと、十字を旗印に使っている武将もいました。

 しかし、マントが翻って背中に挿していた他の旗指物とこんがらがると大変ですので、マントの裾を帯のように縛って馬に乗るなど、日本では工夫されています。そして、背中が風をはらんで膨らむのがかっこいいとなるわけですが、だんだん時代が進むと、最初から丸くしておいたらいいとなる。そこで、風船玉のようなものを背負って走るようになった。そうすると、後ろ矢で狙われても、矢が通らずに避けることができるというわけです。

 風船玉のようなものを背負って戦場を馬で走っていくと、本陣から使番が来たことがすぐ分かる。異様な恰好ですので、敵の鉄砲足軽のターゲットになりやすいのですが、だからといって地味な恰好をしてコソ...
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