●「天下を狙う」のは戦国武将の当然の考え?
本能寺の変について、一般的には明智光秀の単独謀反説が長らく語られてきたと思います。しかしながら、事はそれほど単純ではないことが、これまでの5話で明らかになってきたのではないでしょうか。
光秀については、正確な年齢は分かっていません。織田信長よりは少し年長であろうから、この頃は50代、さらには60代の初めぐらいではなかったのかと主張する研究者もいます。
「天下を狙う」のは戦国武将なら当然だと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、そんなことはありません。天下を狙うには一定の力量だけではなく、なぜそんなことをしなければいけないかという理屈、いってみれば一つの国家案がなければ無理です。また、それがなければ、そんなことをする必然性はありません。ですので、隙を見せたから天下を狙うというようなことは、当時においてはまず考えられないことです。
光秀は実際にクーデターを起こすわけですが、そこには当然悩みはあったものの、最終的には、なぜそのようなことをしたのか、そのことを世の中に向けて広く説明し、納得してもらえるような正統性をもって事に臨んだはずです。すでにお話ししてきたように、足利家直臣の「奉公衆」という家柄に生まれていたため、彼自身も将軍家に奉公した可能性が高いといわれています。そういう彼が足利義昭との関係を正統性に掲げてクーデターを起こしていったことは、かなりの確度でいえるのではないのかと思えます。
しかしながら、これにはいくつかの要因があったと考えるべきです。世には「なんとか説」というものが多いのですが、これだけの歴史的なクーデターが一つの理由によって行われることはありません。このシリーズではすでに四国説に関わる話をしてきましたが、やはりそれだけではありません。今回は派閥抗争について触れていきたいと思います。
これについても、羽柴秀吉ー三好康長というライン(派閥)が徐々に力を持ち始め、特に西国における信長の外交方針を決めていくような立場を獲得しつつあると同時に、明智光秀ー長宗我部ラインを追い込んでいく動きがあったことは、すでにお話ししてきた通りです。
●変の首謀者と目される明智家重臣・斎藤利三
織田信長は、天正八(1580)年から十(1582)年にかけて、天下統一が徐々に見え始めてくると、統一後の政権構...