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実力主義の織田家中で巻き起こる派閥抗争の時代

織田信長と足利義昭(6)派閥抗争

藤田達生
三重大学教育学部・大学院地域イノベーション学研究科教授
情報・テキスト
斎藤利三
これまで学校の社会科の授業では、「本能寺の変」を明智光秀の単独謀反と教えられてきたはずだ。しかし、新旧の勢力が入り乱れた中国・四国の情勢、その様子を瀬戸内海の真ん中からうかがう「鞆幕府」などの思惑を考えると、事はそう単純ではなさそうだ。同時代人の記した文献には、どのような人物の名が挙がっていたのだろうか。(全8話中第6話)
時間:12:35
収録日:2018/10/29
追加日:2019/03/08
≪全文≫

●「天下を狙う」のは戦国武将の当然の考え?


 本能寺の変について、一般的には明智光秀の単独謀反説が長らく語られてきたと思います。しかしながら、事はそれほど単純ではないことが、これまでの5話で明らかになってきたのではないでしょうか。

 光秀については、正確な年齢は分かっていません。織田信長よりは少し年長であろうから、この頃は50代、さらには60代の初めぐらいではなかったのかと主張する研究者もいます。

 「天下を狙う」のは戦国武将なら当然だと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、そんなことはありません。天下を狙うには一定の力量だけではなく、なぜそんなことをしなければいけないかという理屈、いってみれば一つの国家案がなければ無理です。また、それがなければ、そんなことをする必然性はありません。ですので、隙を見せたから天下を狙うというようなことは、当時においてはまず考えられないことです。

 光秀は実際にクーデターを起こすわけですが、そこには当然悩みはあったものの、最終的には、なぜそのようなことをしたのか、そのことを世の中に向けて広く説明し、納得してもらえるような正統性をもって事に臨んだはずです。すでにお話ししてきたように、足利家直臣の「奉公衆」という家柄に生まれていたため、彼自身も将軍家に奉公した可能性が高いといわれています。そういう彼が足利義昭との関係を正統性に掲げてクーデターを起こしていったことは、かなりの確度でいえるのではないのかと思えます。

 しかしながら、これにはいくつかの要因があったと考えるべきです。世には「なんとか説」というものが多いのですが、これだけの歴史的なクーデターが一つの理由によって行われることはありません。このシリーズではすでに四国説に関わる話をしてきましたが、やはりそれだけではありません。今回は派閥抗争について触れていきたいと思います。

 これについても、羽柴秀吉ー三好康長というライン(派閥)が徐々に力を持ち始め、特に西国における信長の外交方針を決めていくような立場を獲得しつつあると同時に、明智光秀ー長宗我部ラインを追い込んでいく動きがあったことは、すでにお話ししてきた通りです。


●変の首謀者と目される明智家重臣・斎藤利三


 織田信長は、天正八(1580)年から十(1582)年にかけて、天下統一が徐々に見え始めてくると、統一後の政権構想と、それを実現するための人事を発表していました。その中で、生き残りを懸けた重臣たちの派閥抗争が、激しいデッドヒートとして少しずつ顕在化してきていたわけです。明智光秀自身はどのような立場に置かれていたのか、少し見ていきたいと思います。

 それを示す史料を紹介していきます。ここで注目していきたいのが斎藤利三という人物です。利三は、当時は明智家重臣の一人で、とりわけ光秀が非常に信頼を置いた猛将だといわれています。その彼が実は本能寺の変の首謀者ではなかったかということが、本能寺の変直後からのいろいろな史料に書かれているのです。

 例えば『元親記』。これは元親の家臣・高島重漸が後世になって記したもので、「扨て(さて)斎藤内蔵助(利三)四国の儀を気遣に存ずるによつてなり、明智殿謀反の事弥(いよいよ)差急がれ」というように、この謀反について、直接的には利三が「早くしなければもう間に合わない」と急かしたと書かれています。

 さらに変の直後、公家の勧修寺晴豊は「彼(利三)など信長打談合衆也」(「天正十年夏記」六月十七日条)というように、はっきり書いています。また、公家の山科言経の日記では、利三のことを「今度の謀反の随一也」と書いています。

 面白い史料として、『本城惣右衛門覚書』というものがあります。本城は光秀の家来として、実際に本能寺に乗り込んだことを自慢げに語った人物です。晩年に語ったことが覚書として書き残された形ですが、「さいたうくら介殿しそく、こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ」というように、利三あるいは息子たちが本能寺に乗り込んだと考えていいと思います。

 要するに、利三を中心とした重臣たちが、光秀を急がして本能寺の変を起こさせたと読み取ることができます。もし、それが可能であれば、どう考えたらいいのかということです。


●明智光秀を支えてきた人脈の濃さと効果を知る


 明智光秀の人脈は第4話で見ていただきましたが、将軍家に近い美濃源氏一族であることが共通の特色です。具体的には明智、斎藤、石谷といった美濃の幕府奉公衆が、相互の婚姻関係をベースにしていました。例えば、光秀の娘(後のガラシャ夫人)が嫁いだ細川家は管領の一門...
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