●「四国説」の重要人物、三好康長とは
話はそろそろ天正九(1581)年、本能寺の変の一年前に移ります。その前に「四国説」について少しお話をしていきたいと思います。
この説が脚光を浴びるようになったのは「石谷家文書」等によるものです。明智光秀は一貫して長宗我部氏を使って、四国から西国の統一をうまくやっていこうと画策していました。しかし、羽柴秀吉との摩擦や派閥抗争へという流れの中、それはなかなかうまくいきづらくなっていきます。
前回で見たように、当時の秀吉は播磨・姫路を中心に、西に向けて宇喜多氏との連携を意識して進む最中でした。中国地方のみならず、淡路や四国の一部にまで勢力を扶植しつつあり、この段階で、四国の勢力として阿波を中心に力を持っていた三好氏との接触が始まります。三好康長との深い付き合いです。
三好氏は、織田信長が入京する前に天下人だった家です。阿波(徳島)の三好長慶が畿内を中心に十カ国以上にも及ぶ勢力を誇っていた時代があったのですが、信長が入京することで三好氏は勢力を減じていきます。対立もありましたが、やがて一族の康長が信長と結ぶことによって、三好氏も何とか滅亡を免れました。
しかしながら、三好氏の本国・阿波に向けて長宗我部氏がどんどん勢力を拡大してくると、これに一方的に押され、非常に困難な状況に直面しています。そのような中では、羽柴秀吉の動きが非常にありがたかったのだと思います。秀吉は播磨から海を越えて淡路島、さらに四国と勢力を伸ばしています。康長はこの動きに追随しようと、羽柴ー三好ラインを成立させていました。
●毛利氏に対抗する「水軍力」としての三好氏
時期的に史料がなく確定はされていませんが、羽柴秀吉の甥である秀次を三好康長が養子に入れるのも、おそらくこの時期だろうと推定されています。
このように、三好と羽柴が連携をしていく動きは、秀吉からすれば、さらに西に進んでいくときに、どうしても必要になる水軍力を満たす意味がありました。敵方の毛利氏は「村上水軍」などを持っており、陸だけではなく瀬戸内海でも相当力を持っていたといわれています。
水軍力というのは、練習をしていきなり力を付けられるものではありません。尾張から水軍(海賊)を連れていって、どうにかなるものでもありません。そこで目を付けたのが「三好水軍」だったのでしょ...