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本能寺の変「四国説」の重要人物、三好康長とは?

織田信長と足利義昭(5)四国説

藤田達生
三重大学教育学部・大学院地域イノベーション学研究科教授
情報・テキスト
本能寺の変の原因として、俄然浮上しているのが「四国説」である。織田信長の四国討伐を阻むために明智光秀が謀反を起こしたというのが「四国説」の骨子であるが、「石谷家文書」の新発見によりさらに脚光を浴びることになった。古文書による同時代の語りを聞いてみよう。(全8話中第5話)
時間:21:31
収録日:2018/10/29
追加日:2019/03/01
≪全文≫

●「四国説」の重要人物、三好康長とは


 話はそろそろ天正九(1581)年、本能寺の変の一年前に移ります。その前に「四国説」について少しお話をしていきたいと思います。

 この説が脚光を浴びるようになったのは「石谷家文書」等によるものです。明智光秀は一貫して長宗我部氏を使って、四国から西国の統一をうまくやっていこうと画策していました。しかし、羽柴秀吉との摩擦や派閥抗争へという流れの中、それはなかなかうまくいきづらくなっていきます。

 前回で見たように、当時の秀吉は播磨・姫路を中心に、西に向けて宇喜多氏との連携を意識して進む最中でした。中国地方のみならず、淡路や四国の一部にまで勢力を扶植しつつあり、この段階で、四国の勢力として阿波を中心に力を持っていた三好氏との接触が始まります。三好康長との深い付き合いです。

 三好氏は、織田信長が入京する前に天下人だった家です。阿波(徳島)の三好長慶が畿内を中心に十カ国以上にも及ぶ勢力を誇っていた時代があったのですが、信長が入京することで三好氏は勢力を減じていきます。対立もありましたが、やがて一族の康長が信長と結ぶことによって、三好氏も何とか滅亡を免れました。

 しかしながら、三好氏の本国・阿波に向けて長宗我部氏がどんどん勢力を拡大してくると、これに一方的に押され、非常に困難な状況に直面しています。そのような中では、羽柴秀吉の動きが非常にありがたかったのだと思います。秀吉は播磨から海を越えて淡路島、さらに四国と勢力を伸ばしています。康長はこの動きに追随しようと、羽柴ー三好ラインを成立させていました。


●毛利氏に対抗する「水軍力」としての三好氏


 時期的に史料がなく確定はされていませんが、羽柴秀吉の甥である秀次を三好康長が養子に入れるのも、おそらくこの時期だろうと推定されています。

 このように、三好と羽柴が連携をしていく動きは、秀吉からすれば、さらに西に進んでいくときに、どうしても必要になる水軍力を満たす意味がありました。敵方の毛利氏は「村上水軍」などを持っており、陸だけではなく瀬戸内海でも相当力を持っていたといわれています。

 水軍力というのは、練習をしていきなり力を付けられるものではありません。尾張から水軍(海賊)を連れていって、どうにかなるものでもありません。そこで目を付けたのが「三好水軍」だったのでしょう。秀吉にとっても、三好氏と連携することには相当のうまみがあったということです。長宗我部氏に押されている三好氏にとっても、秀吉と結ぶにはメリットがあったということで、彼らは同盟関係を結んでいくことになったわけです。

 天正八年から九年にかけて、織田信長の西日本に対する外交方針が大きく変わっていって、毛利氏と戦う方向へ動いていきます。さらには、四国に対しても手を伸ばしていく方針がとられます。すでにお話をしていますが、信長は、天正八年には、三好氏と長宗我部氏との抗争に対して、お互いに仲直りをしなさいという介入も始めていたわけです。

 このように、信長自身の四国政策が徐々に、徐々に変わっていきつつあるのが八年から九年にかけての動きです。羽柴ー三好ラインの動きが明智ー長宗我部ラインをどんどん追い込んでいくのは天正九年の動きになります。


●将軍足利義昭による「信長討果」宣言の意味するところ


 それでは〔史料8〕を見ていきたいと思いますが、これはすでに本能寺の変が起こってしまった直後の史料です。

 天正九年から天正十年にかけて、織田政権内部で二つの派閥の勢力が激しく競い合っている動向はうかがえたと思います。ひとまず、本能寺の変直後の〔史料8〕から見ていくと、これは、足利義昭が発令した正式文書で「御内書」と呼ばれるものです。

 日付は天正十年六月十三日、本能寺の変の十一日後の史料です。奇しくも山崎の戦いが行われた当日ですが、義昭にはまだ当然知らされていません。その段階で、毛利家重臣で水軍の有力者である乃美宗勝に宛てた文書です。

 傍線を引いておきましたが、「信長討果上者、入洛之儀急度可馳走由」と書かれています。現代語にすると、「信長を討ち果たした」と宣言した上で、「入洛する(京都に帰る)ので、奔走しなさい」と命じています。

 これは、決していわゆる偽文書ではありません。様式等を見ても、義昭自身が作成させたものであることは確実です。今まで、本能寺の変の中に「義昭」という要素は全くありませんでした。この史料は知られていましたが、ほとんど顧みられていなかったのです。

 〔史料1〕(第1話参照)で示したように、この前日、明智光秀は自らが義昭を奉じていることを語っています。ここでは、義昭自身が信長を討ち果たしたと語ります。これを偶然...
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