●四国戦に臨み、織田信長の朱印状が示したこと
天正十(1582)年になると、織田信長は四国をどうするのかについて本格的に指令し始めます。これは、実は徐々に変わってきたものです。具体的には長宗我部氏がどんどん追い詰められ、三好氏がどんどん有利になっていく動きでした。
〔史料11〕を見ていきましょう。天正十年五月七日付で信長が三男の信孝に宛てた指令書です。結果的には、これが信長の最後の朱印状になりました。
ここに書かれているのは、四国に軍勢を発進させるという具体的な話です。一般的には「国分け」といいますが、平定した諸国をどのような大名に張り付けていくのか、国守大名をどのようにしていくのかなどを指令したものです。
傍線箇所では、四国での戦争を控える息子・信孝に対して「讃岐国之儀、一円其方可申付事」と書いてあります。これまでは伊勢で二軍規模の小大名だった信孝ですが、ついに一カ国を預けられる約束がなされたということです。二か条以降は、阿波の国については、もともとの大名である三好に預ける。その他の国と書いてあるのが当然伊予と土佐になりますが、これらは信長が淡路に至ったら、その人事を発表すると書いてあります。
信孝に対しては、三好康長を自分の主君あるいは親と思って仕えるよう諭してもいます。もうこの段階で、信孝は三好家に養子として入っていたと見ても良いのではないかと思います。この段階では、四国の東の部分(讃岐、阿波)については、信孝と三好康長が返り咲くことが約束され、長宗我部氏は非常に押し込まれていることがうかがわれる史料です。
●織田信長は本能寺の変がなければ四国に出陣していた?
もう一つ、重要な情報があります。私たちは、本能寺の変がなければ織田信長は備中高松に出陣していくのではなかったのかと思いがちですが、実はそうではありません。信長自身が「六月四日に出陣する」と書き、他の資料でも確かめられますが、行き着く先は備中高松、つまり羽柴秀吉の待っている毛利攻めの本陣ではなく、長宗我部攻めの本拠地となる淡路に行くことが、ここに書かれています。四国攻めだったのです。これも非常に重要な情報だと思います。
これについては、非常に面白い証言があります。〔史料12〕をご覧ください。慈円院正似というお坊さんが書いた書状です。伊勢の神戸、つまり当時信孝の城下町の有力な寺院であった慈円院の院主が得た情報を伝えたものです。傍線部に非常に面白い情報が書いてあるので、ご紹介しましょう。
「四国之儀も、大略公事にてめなり候 由、三吉正かんかたより申来候」、これはもうすでにご紹介した通りで、実は四国攻めが始まっているのです。ただし、もう大方は直接戦わずに話し合いでうまくいくのではないかと、三好康長からここに知らせてきたというように書かれてあります。信孝周辺では、これが明らかになっています。
さらに、この戦争はそれでも「八月迄之兵粮出申候」とあるように、八月ぐらいまではかかるだろうと見られていました。「八月までの兵粮」というのは他の資料でも確認されますので、おそらくは四国全体を織田領とするための戦争が行われるというように書かれ、そのように理解されていたのだと思います。
●本能寺の変が六月二日未明だったのは偶然か必然か
〔史料12〕の「尚々」と書かれている追伸の部分では、「御朱印ハ四国きりとりの御朱印ニ候、おもてむきハ、三吉養子ニ御なり候分ニ候」と書いています。「御朱印」は織田信長からの命令ですが、これは先ほどご紹介した〔史料11〕を指すと考えられます。
四国をどのように切り取っていくのかを示した御朱印が出され、表向きには、信孝が三好氏の養子になるということです。だけど本音はどうかというと、これもよく分かるところだと思いますが、康長は、もう高齢でした。そういうことなので、もうしばらくすれば、この三好信孝(織田信孝)が、阿波・讃岐両国の国主になっていくだろうと、周辺では結構ささやかれていたことがうかがえる史料です。
このように〔史料11、12〕を見ていくと、四国については、もう長宗我部氏という要素はなくなっているようにさえ見えます。四国攻撃軍の中心に信孝が据えられ、実際に大坂に結集していたといわれています。つまり、本能寺の変の当日、六月二日に信孝をはじめとする四国攻撃軍が出陣する予定であったと史料に出てくるわけです。
そうなると、本能寺の変はたまたま六月二日だったのだろうかという疑問が出てきます。大坂に結集している信孝の軍隊が出てしまったら、もう四国にわたって戦うわけですから、戦わずして、その前に壊滅させるためのリミットは、六月二日の未明で...