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新史料の発見で見直される「本能寺の変」

織田信長と足利義昭(1)はじめに

藤田達生
三重大学教育学部・大学院地域イノベーション学研究科教授
情報・テキスト
本能寺の変
2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」は、明智光秀を主役にすることで話題を呼んでいる。新しい史料の発見、歴史研究の刷新等により、従来の信長=天才的イノベーター、光秀=私怨による謀反人という見方が払拭されつつあるのだ。光秀を悲劇に巻き込んでいったともいえる「織田信長と足利義昭」の関係にスポットを当てた連続講義で、一足先に戦国の英雄たちに触れてみてほしい。(全8話中第1話)
時間:13:40
収録日:2018/10/29
追加日:2019/02/01
≪全文≫

●勅命講和後の織田政権、天下人への最終段階


 皆さん、こんにちは。三重大学の藤田と申します。本日は、「織田信長と足利義昭」というテーマでお話をさせていただきます。

 天正八(1580)年三月、正親町(おおぎまち)天皇は信長の依頼を受け、大坂本願寺と信長の講和を仲介します(「勅命講和」)。これにより、一向一揆を先導していた大坂本願寺と長らく戦っていた信長が和解することになりました。実態としては、信長が天皇をある種利用しながらということになりますが、本願寺を紀州(現在の和歌山)に退去させることに成功しています。

 その瞬間から、信長は新しい政治改革を大変な勢いで進めていくことになります。信長の天下統一は、この瞬間から新しいステージを迎えたといっていいと思います。それまでは、境界を接する敵対大名領主と直接戦っていましたが、これ以降は遠隔地の大名領主との和平交渉に向かい、場合によっては戦争も行いつつ、新しい天下統一の段階を迎えます。

 具体的には、この年から他国への介入が始まり、停戦令を押し付ける形で進んでいきます。五月には中国地域の毛利氏との停戦交渉を始め、六月には四国地域の長宗我部氏と三好氏との抗争への介入を行います。八月には九州における諸大名(島津氏、大友氏、龍造寺氏)間の勢力抗争に加入して停戦令を押し付けています。

 天正八年からは、畿内に旧幕府の勢力がいなくなり、本格的に新しい政権への道が模索されていきます。後でお話ししますが、旧来の公権力であった室町幕府に対して、信長を頂点とする「安土幕府」と私が呼ぶ新しい武家勢力の確立を目指して、最後のステージに入っていくわけです。


●本能寺の変の十日後に明智光秀から雑賀衆に宛てた手紙


 ここで、史料を二つご紹介したいと思います。両方とも比較的近年に発見されたもので、本能寺の変の前後十日間ほどのものです。

 一つ目は、天正十(1582)年六月二日という本能寺の変勃発からちょうど十日後の史料です。2017年に見つかった史料で、〔史料1〕と提示しています。具体的には(実際の史料の)最初と最後部分のみになりますが、傍線部分を読んでいきたいと思います。

〔読み下し文〕
仰せの如く、未だ申し通わず候ところに、上意馳走申し付けられて示し給い、快然に候、然れども御入洛の事、即ちお請け申し上げ候、その意を得られ、御馳走肝要に候事

 簡単に解説をしておきましょう。この史料は、本能寺の変から十日後に当たる天正十年六月十二日付で、紀伊(現・和歌山県)周辺で勢力を持っていた雑賀衆(さいかしゅう)のリーダーであった土橋平尉(重治)に宛てて明智光秀が書いた手紙です。もともとは重治からの手紙に対する光秀の返報だったことが分かっています。

 冒頭、「仰せのように今まで音信がありませんでした」の部分は、初信であることを示す慣用表現です。続いて、以下のような意味になります。

 上意(将軍の意思)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら、将軍のご入洛の件については、すでに承知しています。そのようにご理解されて、ご奔走されることが肝要であります。

 続いて、「尚々書き」といいますが、その部分に移ります。

〔読み下し文〕
尚以て、急度御入洛の義、御馳走肝要に候、委細上意として、仰せ出さるべく候条、巨細能わず候

 この部分は、書状の中で特に言いたかったことをもう一度強調してまとめて終わるのが一般的です。現代語では、「なお、必ず将軍のご入洛のことについては、ご奔走されることが大切です。詳細は上意(将軍)からお命じになられるということですので、委細につきましては、(私からは)申し上げられません」となります。


●明智光秀と足利義昭の関係を示す貴重な文書が発掘された


 文書の中に「上意」など、将軍相当者への敬意を表す表現が多出しています。結論的にいえば、この段階で明智光秀が、かつての主君であった足利義昭(十五代将軍)を推戴し(奉じ)て、このクーデターに及んだことが分かる、非常に重要な史料です。

 光秀は自らが天下人になるのではなく、義昭を推戴し、室町幕府の再興・復興を目指して、このクーデターを行ったということが分かる、非常に重要な内容を含む史料だと思います。しかし、この史料を私が紹介すると、よく疑問が呈されます。「(本能寺の変の後)困じ果てた段階で光秀が義昭に頼っていったのではないのか」といった見方です。

 それについては、一言申し上げておきます。現在では、電話やインターネット、メール等があるため、情報は瞬時に伝わっていきます。しかし、この時代はそうではありません。京都と、当時義昭が拠点としていた備後・鞆の浦(とものうら、現・...
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