●天正十年の足利将軍、中央を臨む動き
お話の前提を少し申し上げます。第1回講義で、第十五代将軍足利義昭に触れました。歴史に詳しい人でも、「え? 天正十(1582)年の本能寺の変の時期に義昭をうんぬんするというのは、その十年も前に室町幕府が崩壊しているから、あまり意味がないのでは?」と、いぶかられる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、明智光秀が義昭を奉じていることは、第1回講義で示した〔史料1〕から明らかにうかがえるのです。
宇治槇島城で織田信長との対戦に敗れ(元亀四<1573>年)、義昭は没落しますが、その段階で室町幕府が崩壊したという説を私は取りません。十年後の当時においても現職の将軍です。天正四(1576)年からは、備後の国・鞆の浦(現在の広島県福山市郊外)に亡命政権を置いています。
鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置し、交通の要衝として古来栄えた港町です。人や物が流通する結節点であり、最も情報の得やすいこの場所を拠点にした足利将軍は、「鞆幕府」と私の呼ぶ亡命政権の中核をここに起き、帰洛戦(上洛戦)を望んでいました。
彼はここをいわゆる信長包囲網の中核にして、京都に幕府を復興させるために全国の大名等に声を掛け、自分に協力をしてくれる勢力を集めていたのです。正確には、義昭と毛利氏(具体的には当時、当主であった毛利輝元)との連合政権だったと私は見ています。
●安土と鞆、二重政権がしのぎを削る7年間
天正元(1573)年以降の織田信長は天下統一戦を進めていくものの、それによって信長の力が一挙に全国に展開したわけではありません。とりわけ西国(西日本)においては、まだまだ室町幕府が力を持っている、もっといえば室町時代が回っている状況が長らく続いているわけです。そういう意味で、天正四年以降は、信長の安土を中核とする武家政権である「安土幕府」と、西日本を中心として力をなお保っている「鞆幕府」の二つが厳しくしのぎを削っている二重政権状態、あるいは内乱と表現できるでしょうか。そのような中で歴史が動こうとしていると、私は見ています。
例えば、天正七(1579)年にはこういうことがありました。京都の将軍家ゆかりの浄土宗寺院ですが、応仁の乱で退転していた寺院が復興に向けて動き始めます。当然のことだと思いますが、正月八日付の村井貞勝の文章で、信長から再興を許可されています。こ...