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明智光秀の家系図から読み解く人間関係

織田信長と足利義昭(4)信長の西国御出馬その2

藤田達生
三重大学教育学部・大学院地域イノベーション学研究科教授
情報・テキスト
明智光秀
系図は一族代々の系統を書き表すもので、封建社会では特に重んじられていた。では明智光秀の系図はどのようなものなのか。本能寺の変の真実に迫るべく、二つの図を参照しながら、光秀をめぐる人間関係、そして当時の織田家における勢力関係について解説を進める。(全8話中第4話)
時間:12:51
収録日:2018/10/29
追加日:2019/02/22
≪全文≫

●明智光秀の家系図から読み解く人間関係


 本当はあらかじめお話ししておかなければいけなかったのですが、ここで明智光秀をめぐる人間関係が分かるように書かれた系図のご説明をしていきたいと思います。

 明智光秀は非常に有名な存在ですが、そのルーツはいろいろな史料によって諸説紛々です。父や母は何者か、源流は美濃源氏などの説に始まり、子どもが何人、親戚に誰がいるなど、いろいろな本でさまざまに書かれており、確定できません。ここでも、父母については確定できないため、入れていません。これだけはいえるという最小範囲による系図を作成したので、〔図1〕をご覧ください。

 光秀には妻がいました。子どもは、年長の方では女性が多く、男子も何人かいましたが、名前まで明確な者はごく少ないため、ここでは限定的に書いています。娘としては、荒木村重の嫡男だった村次の妻になった人、一族の重臣だった光忠の妻になった人、また細川忠興の妻として有名になったガラシャ夫人、織田信長の甥に当たる信澄の妻がいました。息子では、ふつう光慶と呼ばれている十五郎他、何人か男子がいたようです。

 また、注目されていることとして、信長のお気に入りの側室「御ツマキ」が、光秀の義理に当たる妹だったという説があります。この側室の存在のおかげで、光秀は織田家に就職したり、出世したりすることができたと察するもので、実際にそう書いている史料もあります。信長にとって、光秀は非常に近い存在として意識されていたかもしれません。また、ここには書いていませんが、信長の正室といわれる濃姫(帰蝶)が光秀と非常に近い関係(例えば従妹関係)にあったという説もあります。私は、どちらも否定しにくいのではないかと思っています。

 いずれにせよ、光秀は、信長と、女性を媒介として非常に近い関係にあったのではないか。光秀が短期間に出世できたのは、おそらく準一門衆的な位置付けがあったからではないかと考えられるわけです。

 光秀は美濃源氏だったといわれます。当時、幕府の「奉行衆」と呼ばれていた役職(江戸時代でいえば「旗本衆」に相当)、時の将軍に直接従う近衛兵のような役割を果たした名門の出身だろうという推察で、おそらくその通りだろうと私は思います。系図からも、明智家は斎藤家や石谷家という美濃の奉公衆一族との縁組を重ねていたことがうかがえますので、この推察が成り立つと考えるわけです。

 さらに、斎藤利賢がいます。明智家の重臣として有名な猛将です。第1回で名前の出てきた息子の利三は、確定しづらいのですが、光秀の甥であった可能性があります。また、利三の兄に当たるのが頼辰です。家を継いだのは弟で、兄の方は石谷家に養子として迎え入れられました。石谷家には娘がいて、長宗我部元親の正妻になりました。さらに頼辰の娘が、長宗我部氏の次の跡取りになる信親の正妻になります。二代にわたり深い関係で結ばれたわけです。


●豊富な人脈が支えた明智光秀の統治力と外交力


 明智光秀は近畿地方を織田信長に任され、京都の市政を担った時期があります。さらに、丹波・丹後の平定でも力を発揮し、信長にたいそう褒められました。彼には京都という首都を統治する能力があったわけです。これは、おそらく幕府衆であったことによるさまざまな人間関係や知識がものをいったのだろうと思います。さらに、隣接する強国である丹波・丹後を、少し時間はかかりましたが懸命に鎮圧し、統一した武将としての力も、信長の激賞するところでした。

 もう一つ重要だったのは、少し離れてはいますが、四国・土佐の長宗我部氏を育てることで四国を信長方とし、戦うことなく信長の領域にしていったことです。これは外交官としての役割をうまく果たしたわけで、非常に大きな功績であると思います。

 外交というものはいつの時代もそうですが、なんとか戦争を避け、話し合いでまとめていくということで、そこが外交官としての腕の見せどころです。織田家武将のほとんどは、それがうまくできませんでした。羽柴秀吉などはむしろ戦争を好んで仕掛けていくやり方で、生涯一貫してそれを続けていきました。

 光秀は、勅命講和にも関わったかもしれませんし、毛利氏との講和という方向でも動いていきました。これは結実しませんでしたが、四国では手前からうまく立ち回り、四国を平和に平定していく方向で動きました。いってみれば秀吉とは正反対で、できるだけ血を流さない形で短期間に織田家の領域を広げていく外交官として抜群の力量を見せていたといえるでしょう。それができたのも、このような人脈があったためであることを、まず押さえていただきたいと思います。


●方面軍・一門・近習で構成された織田政権


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