●「京都御馬揃え」采配の栄光と、「毛利攻め」応援の落差
―― 丹波平定後は、いよいよ明智光秀といえば「本能寺の変」ということになっていきます。そもそも一番最初の出世頭で、城持ち大名になるのも一番だった光秀。この段階では、だいぶ羽柴秀吉がガンガンやってはきますが、まだ完全に負けたというわけではないですよね。
小和田 そうですね。
―― そういう背景からしても、なぜとなります。これは昔から歴史好きの方々のたいへん好きな領域で、そこに「本能寺の謎」があるといわれるのですが、ではなぜその光秀がそんなことを起こしてしまったのか。
小和田 本能寺の変の一年少し前、天正9(1581)年の2月に織田信長が「京都御馬揃え」という軍事パレードを行います。これは皇居のすぐ横の道を、織田軍団約6万が行進するという壮麗なものでした。その6万の采配を振ったのが、実は光秀なのです。ということは、信長から「お前が織田軍団の一番だ」と言われたに等しいことです。
ところが、その1年後の天正10年5月に、信長から今度は「毛利攻めで苦心している(羽柴)秀吉の応援に行け」と言われる。「応援に行け」ということは、要するに秀吉の命令下に入れということです。前の年に、秀吉に勝ったつもりでいた光秀にしてみれば、ここでまた秀吉にやられたのかという思いになるので、このショックが私は大きかったと思っています。
―― 秀吉の下に置かれてしまったという感じを受けたわけですね。
●「怨恨説」「天下取りの野望説」「黒幕説」の真実
小和田 本能寺の変に関しては、従来からいろいろな説があります。昔から一番よく言われるのは「怨恨説」、今でいうパワハラに対する恨みです。確かにパワハラに当たるようなことを光秀は受けていますから、これをまったく否定はしないのですが、怨恨だけであれだけの大事をやったのかというと、私はむしろそうではないなと思っています。
それから、これも昔からよく言われているのは「天下取りの野望」説。光秀も武将として生まれたからには、一度は天下に号令したい。今がチャンスだ、と信長を討ったというのですが、あれだけの大事業に至るには、それだけでは理由になりにくい。
10年少し前によく言われていたのは、いわゆる朝廷などの「黒幕説」。
―― 黒幕説は、いろいろありましたね。
小和田 そうです。朝廷であったり、足利義昭であったり、徳川家康だったり羽柴秀吉だったり。
―― 彼らが実は光秀を使って信長を倒したということですね。
小和田 私はやはり誰かにそそのかされて、あれだけの決行に及ぶというのはないと思います。黒幕もまったくは否定できないかもしれませんが、ちょっと考えにくい。
●新史料から浮上してきた「四国問題説」
―― 最近では黒幕説はやや下火になってきましたね。下火になった理由はどの辺にあるのですか。
小和田 やはり織田信長が朝廷とは比較的仲良くやっていたこと。近衛前久や勧修寺晴豊などにそそのかされたということはないだろうというので、朝廷黒幕説は下火になってきました。ただ私は少し、例の「暦問題」には着目しています。
―― これは、どういう問題でしたか。
小和田 普通「宣明暦」といって、暦は天皇が決めるのですが、それに対して信長が、「宣明暦ではなく、尾張で使っている暦を使え」と言い出しました。そのことが以前から「不遜だ」「傲岸だ」「天皇を軽視する態度だ」と言われてきたので、若干それはあるかな、とは思います。
それから、最近急に浮上してきたのが「四国問題説」で、「長宗我部元親関与説」とも言います。
―― これは新しいですね。もともと明智と長宗我部はどういう関係ですか。
小和田 明智光秀の重臣の斎藤利三の親族が、長宗我部元親の正室になっているということと、長宗我部元親が信長に頭を下げたときに仲介をしたのが光秀なのですね。
ところが、長宗我部元親が四国をほぼ席巻しそうになったときに、信長が前の約束を反故にすると言ってきます。
―― もともとは「切り取り次第」と言われていたのですね。
小和田 そうですね。「切り取り次第」と言っていたのに「待った」をかけたものですから、長宗我部元親のほうは「これは約束が違うぞ」と思います。また、間に入った光秀のメンツが丸つぶれになるようなこともあり、これが引き金になったという説が、今は結構有力視されてきました。
●複合的な要因の核となる「織田信長非道阻止説」
小和田 ただ私に言わせると、どれか一つということではなく、いくつかの要因が積み重なって、最終的には反旗を翻したのだと思います。
その反旗を翻す大きなきっかけになったのが、信長が天正10(1582)年3月に武田を攻め滅ぼしたことによって、「もう敵はいなくなった」という思いで、ちょ...