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織田信長に高く評価された明智光秀の功績と凄さ

明智光秀の真実(2)織田信長との出会いと活躍

小和田哲男
静岡大学名誉教授
情報・テキスト
織田信長
足利義昭の周旋役として、明智光秀は織田信長に接近する。当初は「両属」として義昭・信長の双方に仕えていた光秀だが、やがて室町幕府再興の望みは捨て、信長の家臣として実力を発揮することになる。そうして、金ヶ崎の退き口や比叡山焼き討ちで武将としての功績を挙げていく。(全5話中第2話)
※インタビュアー:川上達史(10MTVオピニオン編集長)
時間:11:50
収録日:2019/11/22
追加日:2019/12/31
≪全文≫

●室町将軍の周旋役として


―― 先生のご著書に『明智光秀 本能寺の変』(PHP文庫)があります。PHP新書から文庫入りしたものですが、このなかで「斎藤道三と類縁」ということが書かれていました。

小和田 そうですね。道三の正室か側室かは分かりませんが、「小見の方」という人がいます。どうも明智光秀の叔母にあたるそうで、そこで生まれてきたのが濃姫(帰蝶)です。そうなると、光秀と帰蝶はいとこ同士ということになります。このことが、後に織田信長と接点を持つための発端になるだろうと考えられます。

―― そういう人間関係がきっかけになったということですね。可能性の一つとしては、先ほど先生がおっしゃったように、息子の義龍と争った時に負けた道三側についた光秀は越前に逃れた。そこからどうやって名を上げていくのか、その過程になりますが、どうでしょう。

小和田 これはたまたまなのですが、永禄8(1565)年に13代将軍の足利義輝が三好三人衆に襲われます。義輝の弟には、奈良の僧で「覚慶(かくけい)」と名乗っていた足利義昭がいました。これが、「兄が討たれたから自分が将軍になる」と還俗し、細川藤孝とともに各地を逃げ回った末、越前の朝倉義景のところを頼っていきます。義昭は義景をせっついて、「俺を将軍にしてくれよ」と働きかけるのですが、義景は当時なかなか腰を上げませんでした。

 そういう義昭と接触を持った光秀が、「朝倉義景では、京へ連れて行ってもらえる見込みはないけれど、私の知り合いで尾張から美濃まで勢力を伸ばした織田信長が強大な力を持っている。彼を頼ったらどうだ」と言ったのではないかと思います。


●両属から織田家直臣へ


小和田 そこで、おそらく足利義昭は細川藤孝と相談の上、織田信長を頼ろうと決め、使いのようなかたちで明智光秀が信長のところに派遣されたのでしょう。その縁で、朝倉義景を見限った義昭や藤孝が、光秀とともに信長のところにやってきたというのです。これが、永禄11(1568)年の7~8月頃なのです。

 これを契機にして、信長が義昭を擁して上洛します。そして、すぐに義昭を15代将軍に据えるのですが、どうもこの時点の光秀は、義昭の家臣でもあると同時に信長にも仕えるという感じです。今でいえば、二人から給料をもらう感じで、私は二人に属していることから「両属」という言い方をしています。そうしたかたちでしばらくいくのですね。

―― そうすると、もともとは朝倉の家臣だったのが、義昭が来て、朝倉と足利(義昭)に両属するかたちになる、と。

小和田 最初はそうです。そこから、今度は信長に鞍替えして、信長と義昭の両属になるというかたちです。ですから、義昭と信長の仲が良かった時分はまだいいのですが、義昭が「俺は将軍なのに、信長がのさばっている」といって、だんだんと二人の仲に亀裂が生じてくるのです。

 その時に光秀は、おそらく迷ったと思います。このまま義昭を盛り立てていったらいいのか。あるいは、もう義昭は見捨てて信長一辺倒でいったほうがいいのか。そういうことで、結果的に光秀は信長一辺倒になっていきます。

 その頃、ちょうど信長も義昭を追放します。これが教科書では「室町幕府滅亡」と書かれる時期で、天正元(1573)年です。

―― 最初は信長が義昭を支えるかたちだったものの、義昭はいろいろ陰謀工作をして各大名をそそのかし始める。こうなると、義昭と信長の両方に仕えている「両属」としてはなかなかつらいところですね。

小和田 光秀は、本当は室町幕府を再興して、自分がその支え役になるつもりでいたのでしょうが、義昭が信長に見捨てられて追放されてしまった以上、これはもうしょうがない。信長についていくしかないということになります。


●比叡山焼き討ちの功績で「一国一城の主」第一号に


小和田 ちょうどその頃、織田信長も明智光秀のいろいろな才能を高く評価していました。軍事的には越前朝倉を攻めた時で、有名な「金ヶ崎の退き口」があります。

 信長が木ノ芽峠を越えて朝倉の本拠へ攻めこもうとした時、信長の妹が嫁いでいた近江の浅井長政が謀反を起こして、挟み撃ちになります。信長は急遽京都へ逃げるのですが、その時、光秀はしんがりとして金ヶ崎(現・福井県敦賀市)の城で朝倉の追撃を防ぎます。その働きが高く評価されるのです。

 これが元亀元(1570)年のことで、翌元亀2(1571)年には信長による比叡山延暦寺の焼き討ちがあります。昔は、信長が比叡山延暦寺を攻めると言い出した時に「殿、おやめください」と止めたのが光秀だという史料が重視されていました。しかし最近、さらにいろいろな史料が見つかってきて、むしろ光秀は積極的に比叡山焼き討ちに加担していることが分かってきました。

 その功績が認められ、麓の坂本(現・滋賀県大津市...
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