●「天下布武」の意味合いを再考する
そういったなかで実際どのように進めていったかというと、永禄十(1567)年八月、織田信長は美濃の稲葉山城を落とします。さらに九月に美濃国を平定した上で、岐阜に拠点を移していきます。
そして、注目していただきたいのは、その十一月頃から「天下布武」という印章を信長が使い出しているということです。
一般に「天下布武」というと、どう解釈されているのかというと、信長はこれから武力によって全国を平定していくのだ、というイメージがなされているかと思います。
でも、本当にそうなのでしょうか。これまでにもお話ししたように、この頃の「天下」という言葉は、日本の全国を意味していません。この頃の「天下」が意味するのは、京都を中心とした日本の中央です。
そうしたなかで、もう一度注目していただきたいのは、信長はもともと足利義昭を連れて天下を再興しようとしていたわけですが、それに失敗したのだというところです。それを押さえた上で、この「天下布武」を使い出したのはどういうことかを考えてみます。
それは、今度こそ「天下布武」すなわち「天下再興を成し遂げる」ということを世間に強くアピールし出したのではないか。そして、義昭の求めている室町幕府の再興を通じて天下再興を実現するという意思を「天下布武」として刻み、そこに込めたのではないかということです。
そうしたなかで、情勢は信長によって動いていくことになります。このような信長を頼りに、義昭は信長の元を訪れるようになります。再度、義昭に力を貸すことになった信長はどうしたかというと、義昭を擁して九月から上洛に動いていくことになります。
●足利義昭・織田信長の上洛と「征夷大将軍」宣下
(永禄十一年)九月二六日、信長は義昭とともに京都に入ります。一般的にはここが注目されるところなのですが、実は九月二六日に入って、義昭・信長が京都を一時占領する状況となります。ただ、この後の動きも見ていくことで、上洛の本当の意義が見えてくるのではないかと考えます。
この後、義昭と信長は京都にあって、敵対する三好氏の平定を進めていき、九月末には、三好氏の拠点であった摂津の芥川城という城を攻略します。そこで、義昭は自分に味方した勢力を確認します。どういうことかというと、京都を中心とした五畿内、いわゆる「天下」という地域が、自分の下に鎮まったことを確認するわけです。
朝廷側もこの動きを踏まえた上で、足利氏を天下人とあらしめる「征夷大将軍」というステータスへ、義昭を任命していくことになります。こうして、義昭の下で室町幕府が再興される。これが信長の上洛の実態なのです。
つまり、これから自分が天下人へ歩んでいくために信長は上洛したのではありません。信長が狙ったのは、この時代、中央を治めるべき存在である室町幕府という中央権力を再興することが目的だったということを、ここでは押さえておいていただきたいと思います。
●足利義昭と織田信長の連立の下で動き出した室町幕府
そうしたなかで、信長と、信長によって将軍となった義昭とはどういう関係になったかについて見ていきたいと思います。一般には、将軍義昭というのは信長による傀儡、要するに操り的な存在で、信長はその操り的な存在を利用して天下人へと階梯を上り詰めていったといわれているところがあると思います。
ところが実態はどうであるのかというと、将軍となった義昭の下で室町幕府は再興され、その室町幕府が京都を中心とする五畿内において、権益の保証や紛争の解決等に当たっていることが分かっています。
では、信長は何をやっているのかというと、その義昭の政権を支える存在として活動していました。これはどのように考えたらいいのでしょうか。実は、これまで細川氏や三好氏が務めていた役割を、信長も中央統治の在り方として踏まえて、同じように活動していたということを示しているかと思います。つまり、義昭と信長の連立の下で、今、将軍義昭の率いる室町幕府が動き出したということです。
●気づけば四方を敵に囲まれていた足利義昭と織田信長
将軍義昭の下で動き出した室町幕府、また、その義昭政権を支える信長の連合は次に何をやっていくかというと、一つは敵対する三好氏に対する討伐ですが、もう一つは周辺地域における紛争の解決です。
当時は周辺においても大名や国衆などの存在が戦い続けていました。そういう存在に対する解決に努めていきます。そういった働きを行っていくわけですが、やがてそれがあだになり、あるいはきっかけとなって、気づいてみたら義昭や信長に敵対する勢力が増えてくるというこ...