●「有姿」を追求し、人にも強要した織田信長
今回は、最後のお話になります。以上、見てきたことを踏まえて、織田信長という存在をどう捉えるかということをお話ししたいと思います。
一般的には、時代を刷新していく革命児という存在として信長は描かれているかと思います。ところが、これまで話してきたことを見ますと、彼は決して同時代から逸脱した存在ではなかったことが分かってきたのではないでしょうか。また、彼が同時代の諸勢力とも共存できる存在であり、そのなかで生きて活動した天下人であったということも、明らかになってきたかと思います。
では、そういった信長がどのような人物であったのかを見ていくと、今お話ししたように、信長は決して同時代から逸脱した存在ではありません。その一方で、彼は外聞や世評、世の中の人たちがどのように見ているかを気にしたり、あるいは「有姿(ありすがた)」といって「あるべき姿」を求めるような、現実の下で理想を描いていた人物でもありました。
現実の下で描いた理想を、自分だけではなく、他人にも強要する。ここに信長を天下人という立場へ築き上げていく要素もある一方、そうしたことを強要する姿勢に対する反発や対立を生む原因もあったわけです。
そういった信長の在り方を見てくると、なぜ信長の下で謀叛や、最終的には「本能寺の変」が起きてしまうのかということが見えてくるのではないでしょうか。
●同時代から逸脱した存在ではなく、同時代人として生きた織田信長
信長は、決してその同時代から逸脱した存在ではない。けれども、信長が求めるあり方が強要される人々にとっては、それに対する反発を抱えたり、また対立を生んでくることになるわけです。そうした視点で見てくると、信長は同時代に生きる人間であったと同時に、最終的に彼が亡くなる本能寺の変という事件も、その同時代のなかで起きた政変であったと捉えることができるのではないでしょうか。
もちろん本能寺の変により天下人である信長が討たれたことで、信長の下で進んでいた国内の統合が中断し、反発を持っていた勢力が再び動き出します。そういった意味で、大きな事件であったことは間違いありません。しかしながら、信長が決して時代から外れた存在ではなかったということだけは、繰り返し申し上げておきたいと思っています。
(信長死後に宣教師によって描かれたとされる肖像画を写真撮影したもの。
三宝寺所蔵)