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政治家としての明智光秀、知られざるその実像

明智光秀の真実(3)織田軍団での光秀の存在とその役割

小和田哲男
静岡大学名誉教授/文学博士
情報・テキスト
織田家家臣として、羽柴秀吉に並ぶスピード出世を遂げた明智光秀だが、彼のどんな点を織田信長は買っていたのだろうか。また、同時代人には、光秀と秀吉の関係はどう映ったのか。さらに領主としての光秀の政策を通し、政治家としての側面も掘り下げていく。(全5話中第3話)
※インタビュアー:川上達史(10MTVオピニオン編集長)
時間:08:31
収録日:2019/11/22
追加日:2020/01/07
≪全文≫

●織田信長は明智光秀の何を買い、同時代人はどう評価したのか


―― では、二つお聞きしたいのですが、まず一つ目に織田信長は明智光秀のどういうところを買ったのでしょう。

小和田 それはやはり冒頭に申しましたように、彼が教養のある文化人だったことが一つあります。それで、結構京都人脈とつながっていたということです。これは、先祖が室町幕府の奉公衆だということにも多分リンクしてくるかと思います。羽柴秀吉や柴田勝家のような尾張出身者は、京都のお公家さんのような人たちとの接触があまり得意ではありませんでした。光秀はむしろその辺が得意だったのを信長は見て、京都奉行にも多分抜擢したのだと思います。

 もう一つは、金ヶ崎の退き口や比叡山での功績です。武将としてもこれは使えるぞ、というかたちで、どんどん使ったのではないかと思います。

―― 最初は外交役のような立場だったけれど、意外に戦も上手だったということですね。信長がそういうところを買ったとすると、今度は秀吉との対比が気になるところですが、いわゆる同時代のライバルとして、史料ではどのような人物像としてそれぞれ描かれていますか。

小和田 秀吉のほうは豪放磊落なような書き方をされ、光秀の場合は慇懃ないし謹厳実直な人柄だとされています。そんな二人だから、立場も全然違うと書かれています。おそらく信長あたりも、その違いをうまく使ったのではないかと思います。

―― まったくタイプが違ったわけですね。

小和田 タイプの違う二人を、同じようなことでうまく引き立てたということです。


●丹波攻めと中国毛利攻め、ナンバー2の熾烈な争い


―― 明智光秀の立場から考えると、羽柴秀吉のように「なんでもあり」で、明るくて、うわーっと行ってしまうようなタイプと出世争いをするのは、相当たいへんな話ですよね。

小和田 そうですね。だから、着々と成果を挙げていくしかないといった思いでいたのではないでしょうか。

 ちょうどその頃、光秀は丹波攻めを命じられます。丹波は京都のすぐ隣なので、みんな信長になびいていたのではないのかと言われるのですが、意外と難航します。実は天正元(1573)年に足利義昭将軍が追放されるまでは、丹波の人たちはおとなしくて、みな将軍家に従っていました。

 ところが義昭が追放されたとたん、「これは違うぞ」ということで、彼らは信長に対して敵対意識を持ち始め、反抗し始めます。「それを抑えるのはお前だ」ということで、光秀が指名されます。天正3(1575)年からのことですが、なかなか大変でした。最初は有名な黒井城を攻めたりしましたが、失敗して逃げ戻っています。

 普通ならば信長の人事としては、駄目なときはもう切り捨ててしまいます。切り捨てると言っても首を取るわけではなく、お前はこの職では駄目だということで、違う人にすげ替えられるのです。ところが、このときはすげ替えられず、そのまま丹波攻めの大将を命ぜられています。ということは、光秀でなくても失敗するだろうという信長なりの見通しがあり、それならそのまま光秀に任せるしかないと判断されたのでしょう。

 ようやく天正7(1577)年の段階で、丹波平定に成功する。ちょうど同じ頃(天正5年から)、秀吉が中国の毛利攻めに向かう。だからその頃もやはり、秀吉と光秀はどちらが先に手柄を立てるかというライバル的な気持ちがあったのでしょう。


●激しい丹波攻めの後、明智光秀が「神」と慕われた理由


―― 丹波は当然強かったのだと思いますが、皆殺しにしたりなど、相当激しい戦いを行っています。その歴史を知っていて少し意外なことに、光秀はその後、丹波の人たちから結構慕われます。神社にまつられたり、しかも謀反人なのに、というところもあるのですが、これはどういうことなのでしょう。

小和田 これは光秀の領民思いのあらわれで、よく「撫民」という言い方がされます。丹波を取るには手荒なこともしたけれど、その後は領民たちを慈しんだ。例えば「地子免除」といって税金を免除するようなことも行います。

 今の福知山には横山城という古い城がありましたが、そこに新しく福知山城をつくるにあたって、それまで流れていた由良川の流れを変えてしまう。それによって洪水を減らし、堤防もつくる。だから、福知山の町の人たちは、光秀がこの町をつくってくれたと感謝する。そういうわけで、福知山の御霊神社というところに、光秀は神としてまつられています。

 また、今は亀岡市になりましたが、旧・亀山でも光秀はやはり慕われています。そういった意味では、手荒なことをして手に入れた土地を、むしろ今度は慈しむような「いい政治家」だったのではないかと私は思いますね。


●「撫民」政策を惜しまなかった「いい政治家」


―― 明智光秀は坂本城もつくりますが...
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