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●本能寺の変は織田信長討伐のためだけではなかった
こうして「天下一統」を進め、さらには天下人として織田家が存続していくための政治構想を進めていた織田信長なのですが、結局どうなってしまうか。皆さんもご承知のように、天正十(1582)年六月二日、信長が重臣である惟任光秀(明智光秀)によって討たれてしまうということで、その構想は中断となってしまうわけです。
この「本能寺の変」といわれるクーデターをどう捉えるか。これが次の問題になるかと思います。一般に本能寺の変というと、革命児である織田信長に対して、保守的で常識人的存在といえる惟任光秀との対立の下で起きたとされ、その惟任光秀の後ろには黒幕がいたのではないかといったことが注目されます。
今回の講義で押さえておいていただきたいのは、このクーデターが信長を討つだけのものではなかったということです。どういうことかというと、その同日には信長の後継者であった織田信忠が討たれ、また、日常的に彼らの供をする小姓衆や親衛隊などの多くも討たれてしまったということです。さらに、信長と信忠を討った光秀が、その後どうしたかということにも注目しなければなりません。
私たちはどうしても、信長を討った、あるいは信忠を討ったというところに注目してしまいますけれども、実はその日に光秀はある所へ向かおうとしています。それがどこかというと、織田政権の拠点である近江の安土城です。これを押さえなければならないと思います。
実際に光秀が安土城を押さえることになるのは、三日後の六月五日になってしまうのですが、それでも、ここで押さえておいていただきたいのは、これによって何が成し遂げられたかです。光秀が成し遂げたのは、ただ信長を討つだけではなく、信長と後継者の信忠といういわゆる権力の中枢を解体させた。そして、織田政権という権力の拠点である安土城を掌握した。このことを押さえておかなければなりません。
●同時代の政治権力が引き起こした必然としての本能寺の変
これまで、本能寺の変というのは、信長と光秀という個人の関係を中心に、光秀の持つ性格や、あるいは光秀の後ろに誰かがいたのだということで考えられてきたのではないでしょうか。しかし、果たしてそういう視点で捉えていっていいのかという疑問もあります。
どういうことかというと、当時の人々は今の人々よりも組織のなかで活動して生きていく存在だったからです。したがって、その行いには組織の問題があったのではないかということが絡んでくるのです。
そういった視点で見ていくと、どうやら惟任(明智)家に何らかの問題があったのではないかということが出てくるわけです。そして、それは異質な問題だったのかという点を見ていきますと、この後でお話しするように、実は各地の戦国大名家においても見られたことでした。
「本能寺の変」という事件の影響は大きかったですが、その在り方自体は、実は同時代の政治権力が共通して抱えていた、同時代の政治権力だったからこそ起きた事件だったともいえるわけです。
●明智光秀は「天下」を守衛する軍事司令官だった
では、明智光秀──信長の下では惟任光秀という人物ですけれども──その人物はどういった人であるのかということについてお話をしたいと思います。
光秀の出身は美濃国といわれておりますが、正確なことはまだはっきりしていません。ただ、その後、足利義昭に仕え、そのなかでやがて信長との関係を持ち、信長によって取り立てられ、さらに信長が天下人となるなかで「惟任光秀」という存在になっていった人物であることは間違いありません。
光秀の特徴を見ていくときに注目していただきたいのは、彼が直接に管轄する地域が、近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)と京都の北西に当たる丹波国だったことです。光秀はこれらの地域を信長から運営を任されていた“織田大名”としてあったことが、一つ注目できるかと思います。
さらに、もう一つ注目していただきたいのは、光秀と親戚関係にある者、あるいは光秀と政治活動や軍事活動をともにする「与力」と呼ばれる存在に注目すると、それらの存在が光秀とともに、京都を中心とした首都圏、いわゆる天下の周縁を取り囲むように配置されているということです。
これは何を意味するのかというと、天下に君臨し、天下を運営していくのが織田信長である状況で、光秀は彼を軍事面で守る軍事司令官としてあったということだろうと分かっています。こうした立場というのは、当然、信長の強い信頼がなければ成り立ちません。実際のところを見ても、信長は光秀を高く評価しています。一方、光秀も信長を畏敬する、要するに自分にとって恩人であり、なおかつ敬う存在であったことが、史料から明確に読み取れます。


