●戦国時代の「天下」と「天下人」
それでは、前回お話しした時代のなかで、織田信長がどのように現れ、どのようなことを成していったのかを見ていきたいと思います。
それにあたって、もう一度「天下」というものについてお話したいと思うのですが、「天下」というのは京都を中心とした周辺の地域、今風にいえば「首都圏」に当たるわけです。その首都圏を押さえた人物が、当時においての「天下人」というふうにいわれておりました。
では、戦国時代において、天下人としてあったのは誰か。私たちは、信長や、次の羽柴秀吉、徳川家康という存在に注目しがちですが、実は戦国時代においては、天下人としてすでに室町幕府の将軍であった「足利氏」という存在がいたことを忘れてはならないかと思います。
つまり、信長以前の足利氏という存在をまず押さえておかなければならないということです。戦国時代の足利氏というと、一般には「傀儡になった」というイメージが強いかもしれません。しかし、実は京都を中心とする五畿内においては、依然として権益保障や紛争解決といったもの行うのが将軍である足利氏であり、さらにその統治機構である幕府も存在していたことが明らかになっています。
●天下人としての足利将軍と連立政権
そうしたなかで、足利氏は依然として朝廷(天皇を中心とした政治集団)や、朝廷と関わりのある寺社勢力などの存在の庇護に努める「天下人」としてあったことが分かっています。
しかし、もう一つ押さえておかなければならないのは、この足利氏だけで万全だったのかというところです。実はこの頃の足利氏は、政治力や軍事力において非常に不安定な状況にありました。
そこで、足利氏はどうしたかというと、当時「畿内」と呼ばれる中央において実力を誇っていた細川氏──もともと「管領」という足利氏を支える補佐役の立場にあった足利の一門や、細川氏の家臣から台頭してきた三好氏と、今風にいえば「連立」を組んだのです。
連立を組むことによって、足りない部分、特に軍事力の面を補完し合って活動していたことが分かっています。つまり、足利氏を支える存在として、畿内の実力者である細川氏、さらにはそこから出てきた三好氏などの存在がいたわけです。
●将軍足利義輝の殺害と「天下再興」への動き
そういったなかで中央情勢が動いていったわけですが、永禄八(1565)年の五月に、思わぬ事件が起こります。13代将軍足利義輝が三好氏によって殺害されてしまうという事件でした。
この事件は、三好側が計画したのか、偶発的に起きたのかをめぐっていろいろ議論がなされていますが、いずれにしても将軍義輝が殺害されてしまったことは間違いありません。これにより何が問題になるのかというと、それまでは足利氏・細川氏・三好氏の連立の下で動いていた政治が、連の立核となる足利氏、すなわち室町幕府の将軍が討たれてしまったことで滞る。これにより、中央は乱れた状況を迎えるわけです。
やがて、こうした状況を再興しなければならないとする動きが起きてくることになります。これが「天下再興」といわれる動きで、その動きを始めたのが、殺害された義輝の弟で足利義昭という人物です。しかしながら、義昭だけでは当然この状況を戻して天下再興を成し遂げるということはできません。それで義昭は各地の勢力に尽力を求めるわけです。そのなかで一番早く応じたのが、実は信長だったわけです。
●守護代庶流の「織田弾正忠家」に生まれて
信長については、どういう家の出身かということが問題になってくると思いますが、彼は尾張の守護代である織田家の庶流の家の出身です。
その存在がどのように台頭していくのか。戦国時代、信長の家である「弾正忠家」は、織田家の内部において軍事を握っていき、また、経済的な富を背景に力をつけていきます。そうしたなかで、やがて織田家を代表する存在になっていったわけです。
ところが、父親の最後の段階で他国から攻撃を受けたこともあり、非常に不安定な状況のなかで信長は家督を継ぐことになりました。そうしたなかで、弾正忠家内部で信長に対する不満が爆発したり、弾正忠家自体に対する一族の反発などが起きてくることになります。
そういったなかで、まず信長は、弾正忠家内部や一族の争いを鎮めていきます。周辺には駿河の今川氏、美濃の斎藤氏(当時は一色氏と苗字を変えていました)などの存在がいるわけです。信長は、そういった存在に囲まれて尾張国をまとめていく状況にありました。それが鎮まって、尾張国が平定される状況になってきたのは、永禄八年の初頭ぐらいです。
信長の次の動きとしては、尾張国と関わりの...