●本能寺の変直前の「三層構造」を見る
天正十(1582)年。織田信長は、まさしく天下統一前夜に当たる時期と認識していたと思います。しかしながら、彼自身の政権内部には激しい亀裂が走っていました。信長の短期間における躍進を支えた重臣層の間に、抜き差しがたい矛盾や対立が起こり、盤石と思われた織田政権をむしばみ、徹底的に腐食させる事態を迎えていました。信長はこれに気付いていたのかどうか。私自身、信長自身はどうだったのだろうと思うことが多々あります。
ここで、〔図3〕を見ていただきます。本能寺の変直前の、明智光秀、羽柴秀吉派閥関係の概略を示した図ですが、実は三層構造で出来上がっています。
まず、地域に一番近い部分で説明をしておきましょう。真ん中より下、「敵対」と書いている部分は、四国をめぐる敵対関係です。
三好康長は、本能寺の変がなければ自分の本国、阿波の国主になる予定です。三好の本家ではありませんが信長に見いだされ、秀吉のバックアップもあって三好家を代表する人物として台頭してきていました。
彼と対立して激しく戦っていたのが、土佐の戦国大名であった長宗我部元親です。元親の方は、四国を統一する寸前まできていました。当時の彼は、なんとか信長と戦争しない方向で動いてきたのが、もはやどうしようもないところまで追い込まれ、最後の選択肢として選んだのが、それまで対立していた毛利氏との連携でした。その仲介役として足利義昭が動いていたことも、申し上げた通りです。
毛利輝元は伊予の河野通直と親戚関係です。四国の中では伊予をめぐる河野氏と長宗我部氏との対立があったため、そこを交渉の端緒として長宗我部氏と毛利氏の連携が築かれつつありました。ここには香川氏や金子氏というような、讃岐や伊予の国人領主も入っていましたし、河野氏に従っていた伊予の西園寺氏などもおり、非常に幅広い勢力が連携に向けて動きを開始していたことがうかがえます。これが、毛利ー長宗我部同盟の動きでした。
●織田一門や近習への「世代交代」と明智光秀・羽柴秀吉
三好の方には一族はいますが、直接的には羽柴秀吉の甥に当たる秀次が養子に入ります。さらには、三好信孝というように、(信長の三男)信孝も三好の養子に入ってきます。さらにもう一つ重要なのは、秀吉の振る舞いです。(当時)子どものいなかった秀吉は、信長の五男・秀勝を養子にしてもらい、長浜城主として活躍させ、「於次秀勝」と呼ばせます。つまり、秀吉の活躍による果実は、やがて秀勝が継承していくという姿勢を示していたわけです。
天下統一直前の段階の信長の方針は、自分が育てた一門衆や近習たちを本格的に活躍させていくことでした。それに対して、秀吉は適合的でしたが、明智光秀は障害になる可能性すらありました。
そこで、図のちょうど真ん中あたりになりますが、秀吉と光秀の対立がどんどん深刻化していることになるわけです。
秀吉は、主君の信長とパイプを太くすることによって、どんどん勢力を中国・四国地域に伸ばしていく。それに対して光秀には足利義昭や毛利サイドからの接近があり、天正十年二月以降はおそらく信長の情報だけではなく、反対勢力である義昭や毛利氏からの情報も入手していた可能性が極めて高いわけです。追い込まれることによって、ギリギリまで破綻をなくしようとして動いたわけですが、最終的には自らの派閥の生存への道を選んだと私は理解するところです。
●織田政権の矛盾が爆発した「本能寺の変」
そこで、おさらいをしておきたいと思います。本能寺の変は、これまでいわば「事件史」や「人物史」として語られることが多かったのです。しかし私は、そういう見方は本質的な見方ではないと考えているところがあります。
つまり、これは織田政権の持っていたある種の矛盾が、ついに、もうどうしようもなくなって爆発したものである。本能寺の変を織田政権論の中に正確に位置付けなければ、政権の本質が見えてこない、ということを何度も訴えているわけです。その立場から、おさらいをしておきたいと思います。
すでにお話ししたように、本能寺の変は、大きくいえば三層構造で捉えるべきかと思っています。その最も下の層、基層に当たる部分では、四国における長宗我部氏と三好氏による覇権構想がありました。
これは他の地域でも同じですが、地元の有力な大名が数カ国の領域を領有しながらぶつかっていきます。境界地域でぶつかって、しまいにはもうどちらかしか残れないほどの深刻な境界紛争が全国で繰り広げられる時期に差し掛かっていました。
四国においては長宗我部氏と三好氏が、まさにそれに当たります。彼らは、それぞれが織田信長に結び付いて有利な立場を獲得し...