●実は部下思いの「いい武将」だった明智光秀
―― 皆さま、こんにちは。本日は小和田哲男先生に「明智光秀の真実~その生涯と実像」、というテーマでお話しいただきます。
明智光秀というと、知らない人はいない戦国の大武将ですが、いろいろな評価がなされる武将といえます。明智光秀は、一言でいうと、どのような人物だったのでしょうか。
小和田 本能寺の変で有名なこともあり、一般的には「主殺しの悪人」「謀反人」といった言われ方をします。しかし、一言でいえば、非常に真面目で、学識や教養もあり、部下思いのいい武将だったと、私は思います。
―― いい武将だったのですね。部下としてついていると非常に仕事をしやすいような人だったのですか。
小和田 そうですね。「この人についていけば」という思いは、家臣の間に多かったと思います。だから、本能寺の変の後も13000人の兵の中から相当数の部下がついていっています。
―― そういう「いい武将」で、「いい人」であった明智光秀の実像に今日は迫りたいと思います。
●諸説入り乱れる、明智光秀の出生
―― 明智光秀は、有名な割には出生がよく分かっていません。いろいろな説があるようですね。
小和田 光秀ほどの武将になると、どこで何年に生まれ、父親が誰かなどはだいたい分かっているはずなのですが、この三つとも、光秀の場合は謎です。とにかく、生まれた場所については、五つほど説があります。生まれた年についても三つほど説があり、父親の名前にも三つ説があって、本当に「諸説あり」という感じです。
ただ私は、生まれ年は享禄元(1528)年だと思っています。亡くなった年齢は55歳。ただ、史料的には『当代記』という結構いい史料があり、こちらに従うと67歳になります。12歳上のほうなのかどうかが、まだ少し謎ですが、織田信長や豊臣秀吉の年齢を考えると、55年の人生だったのではなかったかと私は思っています。
―― 67歳という説が言われだしたのは、比較的最近のことですか。
小和田 最近です。多分もうある程度の年齢になって、将来性を考えたことが本能寺の変の引き金になったという説が、そこに絡んでいます。
―― そのあたりのことは、さらに詳細な史料が新しく出てこないと、なかなか確かなことは言えないのですね。
小和田 そうですね。ですから出身地なども、今まで四つの説はいずれも美濃(現・...