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明智光秀はいつどこで生まれたのか~出生の謎に迫る

明智光秀の真実(1)謎につつまれた前半生

小和田哲男
静岡大学名誉教授/文学博士
情報・テキスト
明智光秀
本能寺の変のイメージもあり、「主殺しの悪人」「謀反人」といった言われ方もする明智光秀。とりわけ前半生など、謎が多い人物でもある。しかし小和田哲男氏は、「非常に真面目で、学識や教養もあり、部下思いのいい武将だったと思う」と述べる。新しい史料も続々と発見されるなか、明智光秀の魅力と実像に迫っていく。(全5話第1話)
※インタビュアー:川上達史(10MTVオピニオン編集長)
時間:07:57
収録日:2019/11/22
追加日:2019/12/31
≪全文≫

●実は部下思いの「いい武将」だった明智光秀


―― 皆さま、こんにちは。本日は小和田哲男先生に「明智光秀の真実~その生涯と実像」、というテーマでお話しいただきます。

 明智光秀というと、知らない人はいない戦国の大武将ですが、いろいろな評価がなされる武将といえます。明智光秀は、一言でいうと、どのような人物だったのでしょうか。

小和田 本能寺の変で有名なこともあり、一般的には「主殺しの悪人」「謀反人」といった言われ方をします。しかし、一言でいえば、非常に真面目で、学識や教養もあり、部下思いのいい武将だったと、私は思います。

―― いい武将だったのですね。部下としてついていると非常に仕事をしやすいような人だったのですか。

小和田 そうですね。「この人についていけば」という思いは、家臣の間に多かったと思います。だから、本能寺の変の後も13000人の兵の中から相当数の部下がついていっています。

―― そういう「いい武将」で、「いい人」であった明智光秀の実像に今日は迫りたいと思います。


●諸説入り乱れる、明智光秀の出生


―― 明智光秀は、有名な割には出生がよく分かっていません。いろいろな説があるようですね。

小和田 光秀ほどの武将になると、どこで何年に生まれ、父親が誰かなどはだいたい分かっているはずなのですが、この三つとも、光秀の場合は謎です。とにかく、生まれた場所については、五つほど説があります。生まれた年についても三つほど説があり、父親の名前にも三つ説があって、本当に「諸説あり」という感じです。

 ただ私は、生まれ年は享禄元(1528)年だと思っています。亡くなった年齢は55歳。ただ、史料的には『当代記』という結構いい史料があり、こちらに従うと67歳になります。12歳上のほうなのかどうかが、まだ少し謎ですが、織田信長や豊臣秀吉の年齢を考えると、55年の人生だったのではなかったかと私は思っています。

―― 67歳という説が言われだしたのは、比較的最近のことですか。

小和田 最近です。多分もうある程度の年齢になって、将来性を考えたことが本能寺の変の引き金になったという説が、そこに絡んでいます。

―― そのあたりのことは、さらに詳細な史料が新しく出てこないと、なかなか確かなことは言えないのですね。

小和田 そうですね。ですから出身地なども、今まで四つの説はいずれも美濃(現・岐阜県)を指していましたが、最近では隣の近江(現・滋賀県)説が出てきて分からなくなってきました。私は、「明智」という苗字が「明智荘」という荘園から出ていることを思うと、現在の岐阜県可児市だろうと考えています。そこに「明智城」という城がありますので、その子息として生まれたのではないかと思うのです。


●明智光秀=謀反人の時代に「証拠隠滅」が図られたのか


―― なるほど。そうなると、土地の領主として支配していた家ということになります。また、もともと足利幕府に仕えていた、という話もありますが、どうでしょうか。

小和田 「明智氏」というのは、もともと美濃の守護の「土岐氏」から分かれた家です。家臣として土岐氏には仕えておらず、むしろ将軍直属のような「幕府奉公衆」として明智氏が出てきますから、ある程度名門の出身といえます。

―― そうした出自の割に、出身地や生年などが正確に分からないというのは、どういうことなのでしょうか。

小和田 明智光秀は本能寺の変の後、最終的には山崎の戦いで羽柴秀吉に負けていきます。そのため一般的には「反逆者」という扱いでした。それで、いろいろな資料が隠滅されていった、というようなことも事情としてあるのではないかと思います。

―― 江戸期までは、家が保っているとその家の歴史を書き残すということがありましたが、明智の場合は残らなかったということですね。

小和田 そうですね。あそこでほとんど終わってしまいましたからね。


●織田信長に仕える以前、やはり謎の前半生


―― 生年も謎ということですが、そうなると、最終的には皆さんご案内のように信長に仕えていく、そこに至る道筋もまた謎につつまれているわけですね。

小和田 そうですね。江戸時代に書かれた軍記で『明智軍記』というものがあります。あまり信用できない史料なので、普通は参考にしませんが、『明智軍記』によると、斎藤道三と息子の義龍が「長良川の戦い」で戦って、道三が敗れます。道三側についていた光秀は明智城を攻められ、城が落ちた後は各地を浪々したということです。その間に武者修行をやったというのですが、あまり信用できません。

 ただ美濃を追われたことは確かで、おそらくそのまま越前(現・福井県)のほうへ逃げて行ったのではないかという推定をしています。というのは、美濃のほうから出て行って数年後、越前にいたというこ...
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