●南蛮貿易をうまくコントロールした織田信長の鉄砲戦略
―― もう一つ、織田信長については「南蛮趣味」がよくいわれます。当時は南蛮人(ポルトガル人やスペイン人)の訪問が盛んだったために、南蛮貿易という形で進んでいくわけですけれども、そもそも南蛮貿易というのは、何を輸出して、何を輸入したのでしょうか。
小和田 これは、もちろんポルトガルやスペインあたりのヨーロッパからの物も来ますが、多くは東南アジアおよび中国ですね。そのあたりの物資を、南蛮人が日本に運んでくる。それで「南蛮貿易」といいます。
当時、日本と明は、明の「海禁政策」によって貿易関係がありませんでした。でも、中国産の生糸などは高い値で売れていますので、(日本としては)そういったものは欲しい。そうなると、一つには密貿易のような手もありますが、合わせて南蛮商人たちが公のルートでそれらを運んでくる。それが南蛮貿易です。
もう一つ、大きなことは、これも最近かなり分かってきたことですが、鉄砲の弾です。従来、鉛は日本でもいっぱい採れるので、日本産の鉛の弾だろうと思っていたら、いろいろ分析をした結果、中国や東南アジア(タイ)の鉛などが大量に使われているのが分かってきました。
鉄砲そのものの技術もヨーロッパから来ましたが、鉄砲の弾の鉛、それから鉄砲の弾を飛ばす火薬もそうだったようです。火薬は、硫黄と木炭、硝石の混合です。そのうち硫黄と木炭は国内で賄えますが、硝石は日本では採れないので、東南アジアから来ています。
面白い例なのですが、よく信長の「鉄砲戦略」といって、長篠・設楽原の戦いで、鉄砲三千挺で武田を破りました。これは、単に鉄砲が大量にあったからということではなくて、火薬の原料になる硝石を信長が堺の貿易で押さえていて、武田のほうにはほとんど回らなかったからです。
武田ももちろん鉄砲は持っているけれども、そのために大量の鉄砲を使うことができなかったのです。そのように、信長が南蛮貿易をうまくコントロールしていたことが、勝因だと思います。
―― 前回、先生は「商人との結託」というような話をされました。堺の商人からすると、南蛮貿易の窓口的な立場で火薬や鉛を扱って、儲ける。信長はそれをコントロールして、自らの軍事力を高めるとともに、堺の儲けを回流させる、というような流れができていたということですね。
小和田 そうですね。
●南蛮貿易の裏で行われていた奴隷貿易の実態
―― もう一つ、もともと南蛮貿易の流れでいうと、九州にキリシタン大名が生まれていて、大友氏などが有名です。彼らも南蛮貿易を熱心にやっていたけれども、実は奴隷貿易を行っていた、と。例えば戦争に負けた側の人を奴隷として南蛮貿易で売り飛ばして、代わりに硝石なりを輸入する。それに対して、秀吉が九州攻めに行った時、「なんたることだ」と言って、キリシタン禁令を出す。「こんなことをやっている奴らは駄目だ」というのがきっかけだったのではないか、ということが最近、ずいぶん言われているようです。これに関して、実態としてはどういうことだったのでしょうか。
小和田 有名なのは、大友宗麟がフランシスコ・ザビエルを豊後府内の城下町に呼んで布教させた時、ちょうどザビエルが呼ばれるのと同時に、南蛮船が大分の近くの港に入ったというのです。だから、まさに布教と貿易がセットになっています。
キリスト教には、「胡椒と霊魂のために」という言い方があるぐらいです。東南アジアのほうで採れる胡椒をヨーロッパに運ぶことと合わせて、霊魂、つまりキリスト教の教えをその地域に広めるのです。
ですから、貿易と布教がセットになっているのは明らかなので、大友宗麟などが大筒(大砲)を買い入れたりしているのは有名です。そういった軍事的なものにも使っていく。合わせて、お話のように、いわゆる奴隷として、国外に人を売っていたような側面もあります。
天正15(1587)年、豊臣秀吉が島津攻め(九州攻め)に行った時、その実態を知って、これはまずいだろうということになりました。多分、秀吉の思いのなかでは、奴隷貿易の実態ともう一つ、キリシタンの結束力の強さが、どうもちょっと怖いと思ったのではないでしょうか。信長が苦労した一向一揆の結束力を思わせるので、それはちょっとまずい、と。
―― その頃になると、キリシタン大名もたくさん出てきて、秀吉の周りにもかなりたくさんいましたよね。
小和田 そうですね。小西行長や高山右近などがそうです。黒田如水も、一時はキリシタン大名でした。そういった面からすると、ちょっとこれはまずいぞということで、天正15年の6月に、今の福岡(博多)のところで「バテレン追放令」を出します。これは、九州の現実を見た秀吉なりの判断だったと思います。